20.10.13

主著作より その1

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なお、小田切信男氏についてはこちらを御覧下さい☟
                          wikipedia 小田切信男





(1)『福音主義論争とキリスト論』(待晨堂.1957年)より


YMCA目的条文をきっかけとし、キリストに関する教会の伝統的教義が十字架の福音を危くすると感じて疑義をもち、聖書のみを権威とせよと教えられた所に従い「聖書のキリスト・イエス」を旗印として、これととりくみ八年の歳月は過ぎました。昭和三十年以来敢て自ら論争の場に身を挺し、止むに止まれぬ思から或は著書を以て或は誌上論文を以て論争に突入して、嵐をまきおこしてきました。 (p1)

(注)「YMCA目的条文」=問題とされた文言は、「YMCAは聖書にもとづいてイエス・キリストを神とし、救主として仰ぎ」云々。本書57頁参照。



キリスト・イエスを神となすのが敬虔な信仰の人なのでしょうか。むしろかえってキリスト御自身、これを信仰の異教化として憂い嘆き給うのではありますまいか。初代のキリスト教徒の戦ったドケチズムとは、これではなかったのでしょうか。
神の独り子が受肉したこと、たしかに肉体を持てる人であったこと――そして、肉体を持つ神がないように、キリスト・イエスが神でなかったということが、真の受肉の意味であります。それ故十字架の死が真の死となり贖の死となるのであります。 (p2~3)

(注)「ドケチズム」=「仮現論」と訳されている。イエスの肉体性の否定。先在のロゴス・キリストは人間の姿に「見える」(ドケオー)だけだったとする。



私のキリスト論はむしろ福音論ともいうべきものであって、この論争もキリスト論論争というよりは福音論争とこそいうべきものであります。 (p3)


トマスの叫びのみが、聖書の中でイエス・キリストを神と呼んでいる唯一の箇所であります。然しここはトマスの驚いて叫んだ言葉を語っているのでありまして、ヨハネ伝の著者自身の意見を語っているものでないことは、二〇章三一節にあるヨハネ伝を書いた目的の言葉を見ればよく分るのであります。しかもこの冷静な目的標語が、トマスの叫びのすぐあとに記されてあることにも、注意すべきでありましょう。ヨハネ伝ばかりでなく新約聖書は、イエス・キリストを決して神とは呼ばず、あくまでも神の子と呼んでいるという所に、聖書の独自なキリスト証言があり、そこに聖書の真理の秘義があると言うべきであります。 (p7)

(注)「二〇章三一節にあるヨハネ伝を書いた目的の言葉」は、「以上のことが書き記されているのは、あなたがたが、イエスが神の子キリストであることを信じる〔ようになる〕ためであり、信じていることにより、その名のうちにあって命を持ち続けるためである。」(岩波版新約聖書、小林稔訳)



北森教授は「神の受肉」を説くに際し「子なる神」が受肉したと主張されますが、「独り子なる神」(一・一八)は、テキスト上問題があるばかりでなく――ヨハネ伝を貫いても、否全新約聖書を通じても「子なる神」の思想は書きしるされてはおらないのであります。 (p8)


要するに新約聖書は(黙示録三・一四は問題として)、イエス・キリストの先在を説き、創造者の側においても決して「神」となさず、そのような人格を「神の子」と呼んでいる事に、キリスト・イエスなる人格の聖書的証言の特殊性があるのであります。
(p9)

(注)「黙示録三・一四」の「問題」の文言は、「神の被造物の初めである者」(岩波版新約聖書、小河陽訳)



教授が断言されますように、「神」が「人」となったといえば、どうしてもその「人」が「神」とならなければ三位一体は成立いたしません。そうすれば、神 ― 人 ― 神 となり、教授の否定された人が神となるという命題が肯定されなければならないことになります。(中略)聖書は、この点についてはあくまでも「神の子」 ― 「人」(受肉) - 「神の子」を語っているのでありまして、ここに聖書の語る深淵な神の子の秘義があるのであります。古代教会の教義的表現「真に人、真に神」は、非聖書的な異教思想であります。
(p11) 


イエス・キリストは受肉者であり、目に見え、手でさわることの出来た人であります(ヨハネ第一書一・一 - 二)。それ故聖書に基いては「神」と呼び得ないのは、当然であります。また聖書は事実イエスを神とは呼んでおらないのであります。聖書の呼ぶイエス・キリストは、あくまでも「神の子」であります。聖書の神は不死を保って「天にいます父」であり、終末まで人には見え給わず、罪人の見ることの出来ない方であります。ただ「神の子」が「父なる神」を啓示するのであります。 (p11~12)

(注)「ヨハネ第一書一・一 - 二」は、「はじめからあったもの、私たちが聞いたもの、私たちの目で見たもの、よく観て、私たちの手で触ったもの、〔すなわち、〕命のことばについて――そのいのちが現れた。そして、父のもとにあったが私たちに現れたその永遠の命を私たちは見て、あなたがたに証しし、告げるのである――」(岩波版新約聖書、大貫隆訳)



「神は死なない」そして「イエス・キリストは神だ」ということから、必然に、イエス・キリストの十字架の死は、ほんとうの「死」ではなく、芝居であったということになってしまいます。これはイエス・キリストの「贖の死」を認めず、福音を芝居化することでありまして、反福音的言辞のこれに過るものはないのであります。それならどこに間違があるのですか。間違っている命題はただ一つ「イエス・キリストは神なり」であります。 (p12~13)


イエスの語る神は「天なる父」であります。御姿を見た者も、御声を聞いた者もおらない神であります。それ故天より来た「神の子」のみが、父を示すのであります。その意味でイエスは「わたしを見る者は、父を見る者であり」「わたしと父とは一つである」と申されたのであります。(中略)聖書の「一つ」とは、イコールとの意味ではなく、むしろイコールでないものにおいて成立する言葉であります。 (中略)要するに聖書の立場からは、「父と一つ」とのイエスの御言葉からは、イエスを神となす理由は生れては来ないのであります。従って北森教授の「イエスを神とする」根拠は、聖書の中にはないのであります。聖書は父なる神を教え、神の子イエス・キリストを教え、聖霊を語ります。しかし父なる神の他に、「子なる神」「御霊なる神」を示しはしないのであります。 (p13~14)


テモテの書には「神は唯一で、また神と人との間の仲保者もまた一人である事、それが子なる神ではなく、人なるキリスト・イエスであるというのであります。これは誤解しようもない、明らかな言葉であります。 (p14~15)

(注)「テモテ書」は、テモテへの第一の手紙2章5節を指しており、本文は、「事実、神は唯一人、神と人間との仲介者も人間キリスト・イエス唯一人。」(岩波版新約聖書、保坂高殿訳)※「唯一人」はルビは「ただひとり」。




聖書では神は神で唯一の神であって、人となり給わぬ方であり、人は人で人に止まり、神たり得ない者であります。そのように神と人とは、全くへだたっておりますからこそ、両者の間に仲保者の介入が必要なのでありまして、聖書はそのような仲保者たる人物をい「神の子」と語っており、それが私共の主イエス・キリストなのであります。 (p15)


先在の「神の子」は神ではなく、「子なる神」でもなく、あくまでも、神の子であったために、受肉し、見える者、見ることの出来る者となり、に対し、人の為に死ぬ者となったというのが聖書の語る福音の秘義なのであります。この様な「神の子」イエスが、新約では「主」と呼ばれたのであります。このも――それがヘブライ的意味の、すなわち、と間違われないために、神にとり立てられた地位(徒二・三六)といわれ、パウロは「主イエス・キリストの父なる神」という表現をとって、神と区別し、ギリシヤ的と間違われぬためには「主は一つ」(エペソ四・五)とか、「唯一の主」(コリント前八・六)と語ったのであります。 (p15)


キリストの神性を信じないでは、聖書は信じられません。また聖書では神性をもつ者が、そのまますぐ神とは呼ばれないのであります(天の万軍天使のように)。(中略)私は宣言致します「私はイエス・キリストの神性を、固くかたく信じます」と。 (p16~17)



ヨハネ伝、コロサイ書、ヘブル書の何れも第一章には、創造の実務は「神の子」がとっておられるのに、決して御子を「創造主」とは呼ばず、「創造主」とはいつも「神」のみについて語られております。 (p17)


(注)「ヨハネ伝」は、ヨハネによる福音書1章3節を指しており、本文は、「すべてのことは、彼を介して生じた。彼をさしおいては、なに一つ生じなかった。」(岩波版新約聖書、小林稔訳)。「コロサイ書」は、コロサイ人への手紙1章16~17節を指しており、本文は、「事実、御子において万物が創造された。天にあるものも地の上にあるものも、見えるものも見えざるものも、王座であれ主権であれ、支配であれ権勢であれ。万物は御子を通して、そして御子に向けて創造されている。また御子は万物に先立ち、万物は御子において存立している。」(同上、保坂高殿訳)。「ヘブル書」は、ヘブル人への手紙1章2~3節を指しており、本文は、「〔神は〕彼を万物を受け継ぐ者とし、彼を介して世々を造ったのであった。彼は神の栄光の反映、〔神の〕実体の刻印であり、その力ある言葉によって万物を担っており、〔もろもろの〕罪の清めを行なった後、高きところで偉大な方の右に座った方である。」



聖書において「神の子」と語られる人格は、先在――受肉――死――甦――昇天――再臨――終末を通して、宇宙的、歴史的使命を果されるものでありまして、終末においては、万物を彼に従わせ給うた父なる神に、自らもまた、従うことになるのであります(コリント前一五・二八)。神の子は終末においても――「神の国」においても「神」とは呼ばれず、あくまでも、神の子とのみ呼ばれる人格であります。イエス・キリストは「隠れたる神」――「天にいます父なる神」を啓示しつつ、自らは決して神とは呼ばれず、あくまでも、神の子とのみ呼ばれる人格であることに、深刻な秘義があるのであります。 (p17~18)


私は今迄イエス・キリストの神性を信ずるユニテリアンを知りませんので「私は所謂ユニテリアンではありません」と申し上げたのであります。論議に先立ち、アリウス、ユニテリアン、異端といった言葉の火花を散らすのは、悪い趣味だと思います。 (p19)


教授は私が「歴史上異端と実体を同じくする立場として、名を残さるるに至る事を、耐え難い事と感ずる」と申されます。(中略)

私は無教会の陣営に属さず、札幌独立基督教会の会員であります。聖書に忠なる限り、会員たる資格を失う事のないのが、この教会の特質であります。私は聖書に忠実であっても、神学者達の憎悪の故に、火あぶりにならないという現代の日本に謝すべきでありましょうか! (p20)


教授は「神の子は神だ」と簡単に断言されておられますが、そうは簡単に言えないのです。「神の子」と言ってキリスト者を指す場合は(ガラテヤ三・二六、ヨハネ第一書三・一)「神の子」は「神」ではありません。(中略)旧約には「神の子」に相当する「エホバの子」(申一四・一)という言葉があります。北森教授も聖書の学者である以上――「神の子は神だ」 の論法から「エホバの子はエホバ」だとは言いはしないでありましょう。(中略)聖書において神と言えば唯一の神であって、――もしそれと同様の意味で人を指す場合には、ただとか、人間とか、あるいは苗字だけの佐藤などと言ってはいけないのであります。「神」に対比するならば、あくまでも具体的な人を指すべきでありますから、佐藤一郎というように言うべきであります。教授には聖書の神が「唯一者」である事が理解されておらないために、無邪気に「神の子は神だ」、「人の子は人だ」と言えるのです。然しまさか教授は「佐藤一郎の子が佐藤一郎」だとは言いますまい。佐藤一郎の子は佐藤一郎ではないのです。すなわち、の子ではないのです。(中略)それで、キリスト者一般を指すとはちがってキリストを「神の子」と呼ぶ時は、神の子はキリストであり、救主であり、贖主であり、栄光の主であっても「神の子は神だ」とは言われないのであります。(中略)聖書において神と言えば、唯一の人格を指す事を知らない人が、神の子というが他にいると思うのです。 (p27~28)


北森教授は「神でないものを神と等しいかのように見る」態度を偶像礼拝と定義づけておりますが、この定義は、聖書上からは間違いであります。でないものをとして礼拝するのが偶像礼拝であって、神ではないもの、すなわち、「神の子」を神と等しいように仰ぎ見る態度は――聖書が明らかに教えているように(ピリピ二・六、ヘブル一・三)これは決して偶像礼拝というべきものではないのであります。(中略)教授は又「み座にいます方」と「小羊」というようにはっきり分けている聖書の言から、小羊が神であるとの議論をしておられますが、これこそ神ならざるものを神と呼んで偶像神化し、それによって、却って教授の語るモーセの第一誡を破る事になるのであります。キリスト・イエスをとする事が、神を唯一とする――神のみを神とする第一誡に背くものである事に気がつかないのであります。 (p28~29)


聖書は唯一の箇所(黙三・一四)を除き、神の子が被造者であるか否かには言及致しておりません。「神の子」はただ「神の子」として、あるいは「キリスト」、「主」、「救主」、「贖主」、「神の小羊」として信仰の対象であります。「神の子」が神とひとしく礼拝されても、神として礼拝されないのが偶像礼拝とならない理由でありまして、神として礼拝されますなら神々の礼拝となり、当然それは偶像礼拝となってしまうのであります。聖書は神とひとしくとりあつかわれる人格を「御子」、「神の独り子」とよんでいるのであります。 (p29)


教授はを犠牲にする事が自己犠牲だと言われますが、(中略)「贖の死」たる十字架の出来事を、「犠牲」などという言葉で理解しようとする事が、福音の理解に欠くる証左であります(「キリストは神か」五五――五六頁)。 (p29~30)


聖書の神は決して受肉致しません受肉したのは「神の子」であります。このことは断乎として語られねばならない事であります。 (p30)


教授は受肉者たるイエス・キリスト自身が、栄光の神だと言い、その栄光の神は死ぬものであるというのであります。(中略)聖書の語る栄光の神は、天にいます神であり、従って断じて受肉せざる神であります。そして又実に主イエス・キリストの父なる神であります。それ故北森教授は根本的な誤りを犯していて、その神学は危険極りないものとなっているのであります。(中略)それに対比しイエス・キリストを主と告白し、神の子と信じ、その神性を信じて、先在と受肉を信じ、その死が贖の死であり、更にその死よりの甦りと昇天、再臨を信ずるという私の告白する信仰が、何所が危険で異端なものと言うのでありましょうか。第一キリスト・イエスについての告白として――このような、あくまでも聖書に即する告白に更に何を信じ加え何と告白せねばならないというのでありましょうか。(中略)主イエスが「人間の言い伝えを堅く守って神の言を無にしている」(マルコ七・一三)と警告されたその言葉に耳を傾けるならば、神の言を無にして人間の言い伝える伝統的教義を堅く守っている人々はきびしく反省すべきであります。 (p41~42)



私自身、自らに戒めたいのは論争には「祈」が忘れられやすい事であります。論争はヘッドの問題として、いかに烈しくとも必ずキリスト者たるハートに終るべきものたることを教えられました。論争で反省させられる多くのものがありましたが、もしそこに何らかよいものがあったとすれば、所謂論敵へのひそかな敬愛の体験でありましょう。 (p43)


聖書にはないキリスト教という言葉が、あたかも聖書に書かれてあるかの如くに信ぜられ、使用されている事に問題性を感ずるのは、真に福音に対決した人にのみ可能なことであります。(中略)私がいかなる意味でもキリストを神とする事に不安を感じ、承服し難いのは――それが聖書のテキストの上から確証が得られないというばかりでなく、この事が主イエス・キリストの十字架の福音を危くすると信ぜられるからであります。私がYMCA目的条文――内容はパリ標準そのものでありますが、この条文に抵抗を覚え、やがてそれが北森教授との論争にまで発展したのも、福音に燃ゆる心の止み難きものがあったからであります。 (p45)


キリスト教が一神教といわれるユダヤ教や回教と異るのは、神への信仰にキリストへの信仰が先立つ点にあります。(中略)極論すればキリストなしに考えられ、信ぜられる神はないのであります。神は天に、人は地に! でありますから、天より地に来れる者のみ天の神を正しく示し得たのでありまして、この天より受肉し給える神の子・キリストなしには、たとえ予言者によって啓示されても、キリストの啓示し給える如き神は、遂に知られざる神、信じ得ざる神に終るのであります。それ故キリスト・イエスこそは、神の啓示者といわれるのに最も適わしい、いわば比類無き唯一の人格であります。(中略)聖書の神はその独自の啓示者たるキリストにおいても、なお隠れたる神――天に在すそしていまさざる所なき神であります。それ故神の啓示者なる歴史の人キリストは、神を啓示しても、決して自らは神と呼ばれたことのない人格、すなわち、「神の子」でありました。 (p46)



唯一神を奉じたユダヤ教に神々の信仰の許されるわけはありません。(中略)しかし神ではない神性者の存在についての信仰は、旧約聖書にも新約聖書にもあるのであります。(中略)聖書ではとはしなくても、人が神性者として取り扱われることはしばしばあったのであります。(中略)キリストの神性は、その先在、受肉、昇天を通しての神性であり、終末に与えられる、キリスト者の神性とは異るのであります。そして又父なる「神」御自身の神性とも異り、たとえその先在において神とひとしくても、なお父に従うという「子」の地位を脱し給わぬのが、聖書の教えるところであります。 (p49~50)


北森教授によれば、三位一体を信じないでは教会に属するキリスト者といえないかの如くでありますが(二月号)、一体、父なる神を信じ、神の子イエス・キリストを信じ、聖霊を信ずるということだけでは、キリスト者とはいえないというのでありましょうか。それがどうしても一体である、と信じなければならないものでありましょうか。三位一体という聖書にはない教義を信じないでは、キリスト者たり得ぬと致しますなら、パウロもペテロも、おそらくヨハネもそれから初代のキリスト信徒達は、皆キリスト者といえないことになってしまいましょう。私は三位一体を信じて北森教授より「キリスト者」と認められるより、聖書の証言のみを信じて、使徒達及初代キリスト者と信仰を共にする方を選ぶものであります。 (p51)


ヨハネ伝においては(二〇・一七)甦りのキリストが――その甦りの状態のままで、神を「私の父」「私の」と呼び、その神が「あなた方の父であり」「あなた方の神であられる方」であると語って居られるのであります。キリスト・イエスは歴史の人たる時は勿論、甦った後も、自らを神として、あるいは子なる神として語った事は、一度もないのであります。(中略)なお又キリスト・イエスが不思議に好んで自称し給うたのは――「子」であり、又メシヤを意味する「人の子」であった事に、思を致すべきであります。それと共に「神の子」が受肉して語り告げた「神」は、あくまでも「なる神」であって「なる神」ではありませんでした。キリスト・イエスの口からは一度も語られなかった「神」こそ「子なる神」なのであります。 (p52)


キリスト・イエスなる神の子によって啓示せられた神は、天に在す神であり、いまさざる所なき神であり、父なる神であり、唯一の神であって、聖と義と愛の神でありますが、決して受肉なし給わぬ神であります。それ故その神を啓示するものとして、受肉して天より地に来れる人格は、あくまでも神の独り子と呼ばれた人格であります。 (p55)


聖書が神の子と呼んでいるキリスト・イエスが果して神御自身であろうか、聖書のテキストの上から、そのことが明確に結論づけられるものであろうか、そして「子なる神」という神が果して聖書の神なのであろうか、また聖書が「神」と語っている神――唯一の神が三つのペルソナに分れ、その一つのペルソナが神のままで――「子なる神」といわれる、そのままで受肉し死ぬということが聖書的に正しいか否か――、これらのことは実に重大な問題だと存じます。私の関心はあくまでも福音の書たる「聖書のテキストが一体どのように語っているか」を探ることでありまして、聖書を離れての論議をも併せ考慮したものではありませんでした。そしてこのことはヘッドの問題たるより、より多くハートの福音信仰の問題であったのであります。 (p64~65)


三位一体を主張し、自らはキリストを神となしているバルトでさえ、その論証として取り上げることをせず、協会訳者や北森教授もまた敢て取り上げなかった箇所であることを考えますならば、やはり学者と言われる人々のとりあげるべき箇所ではないようであります。 (p66)

(注)「箇所」は、ローマ9:5を指しており、本文は新共同訳が、「先祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らから出られたのです。キリストは、万物の上におられる、永遠にほめたたえられる神、アーメン。」、口語訳が、「また父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストもまた彼らから出られたのである。万物の上にいます神は、永遠にほむべきかな、アァメン。」、『日本語対訳ギリシア語新約聖書』(教文館)の川端由喜男訳が、「先祖は彼らのもの また 肉によればキリストも彼らから(出た) すべてのものの上にいる神は永遠にほむべきかな アーメン」、青野訳が、「父祖たちも彼らのものであり、肉によればキリストも彼らを出自とする。すべてのものの上におられる神は、永遠に賞むべきである。アーメン。」



パウロにとって神と人との仲保者として「神の子」――神の長子と呼ばれるキリストは、神とひとしい「神の子」であっても、神の聖名自体をおかすという立場で告白されるが如き人格では、断じてなかったのであります。聖書の語る「神の国」は秩序の国で、二神の存在を語らないのであります。(p67)


もしそのイエス・キリストがまたもう一人の永遠にほむべき神だとなれば「唯一の知恵深き神」のその唯一性が失われてしまいます。そして福音は御子に関ることでなく、ただ「神」にのみ関ることとなり、キリスト教は仲保者なき――異教に等しい、ただの「神の宗教」となってしまいましょう。(p67)



ヨハネ文書の語るイエス・キリストの他の一面は、その消極的な面の紹介にあります。いわば力なきキリストであります。彼は天から来たが、決して自分の意志や権限で来たのではなく(七・二八、八・四二)、神から遣されて、神の御心を行うためであり(六・三九)それも、自分自身からは行うことが出来ず、ただ父のなさる事を見て為すばかりで(五・一九、五・三〇、八・二八)、彼が語り教えるのも自分の意志からではなく、ただ父の命じたことだけを語る(七・一六以下、一二・四九、一四・一〇、一四・二四、一七・八、一七・一四)というのであります。ここには神より派遣され、神から授かった定め(一〇・一八)に生きる人格が語られているのであります。このようなヨハネ文書の語るイエス・キリストの消極面は、藤原氏が「神だ」というのには一寸困る一面でありますが、ここにこそ「神の子」の神御自身に対する関係を物語っている、ヨハネ伝の重要な部分があるのであります。しかし、その「神の子」も、世界と人類とに対する場合においては、積極面が示され「神」としてではありませんが、神と同様な権威を持つ「神の子」として語られているのであります。 (p75)

ヨハネ伝でイエスは次の様に申しておられます。あなた方自身が「神」といっている方が私の父である(八・五四)、そして「神」はあなた方がついぞみ姿を見たこともなく、み声を聞いた事もない方で(五・三七、一・一八)、いわば、あなた方の知らない方である。しかし私はあなた方と違い、その方――をよく知っている(八・五五)と。そして神に派遣されて世に来た神の子を見るものは、その神の子を派遣なさった方を見ることになるのである(一二・四五、一四・九)なぜなら、彼と彼の父とは一つである(一〇・三〇)からと、この様に語っているのであります。ここに隠れたる神知られざる神の啓示者としての歴史の人なる「神の子」の特殊な地位が語られているのであります。 (p76)

文法に多少の問題があっても、全般との調和を破る様に読むべきものではありません。聖書は正にその様に読むべきものであります。五章二〇節も真実なかたに真実な神がかかるのでありまして、著者は明らかにキリストを神とする偶像化を注意しつつ、その書を終っているのであります(五・二一)。 (p77)

聖書のイエス・キリストについては、明らかに先在、受肉、昇天の経過が語られているのであります。それゆえ真の人真の神とか全い神で同時に全い人といいますと、キリストは真の人といわれる状態のままで先在し(創造に参与し)受肉(?)し、死して昇天したものともいい得る訳であります。それならば人――人――人となります。これでは人間の先在が語られる事となって、聖書の人間観がくずれ、非聖書的物語りとなってしまいます。それに反し、又真の神のままで先在、受肉、昇天が語られますならば、神――神――神となってドケティズムとなります。もし、神であり、人である事に時間差をつけて、神――人――神といいますならば(楠本氏が似た意見を出しておられます)、異教主義に転落してしまいます。要するに、聖書にはない真に人真に神の思想は、結局は非聖書的表現であります。聖書が真に語る「聖書のキリスト」は先在、受肉、昇天を貫いて「神の子」と呼ばれる人格であります。すなわち、神の子――神の子――神の子としてこそ、そして又そこに受肉の秘義が加わってこそ、初めて聖書の語るキリスト・イエスの秘義にふれることが出来るのでありまして、この様に神の子・イエス・キリストの理解が正しくなされますなら、そのとき初めて「イエス・キリストの父なる神」を正しく理解出来ることになるのであります。 (p78~79)


「キリストは神だ」は何人かの信仰告白としては認められても、聖書の証言する所のものではなく、その事は反って聖書の真理を危くする事になるのであります。またもし「イエス・キリストは神だ」が聖書の語る所でありますなら、わざわざイエス・キリストは神の肖像であるとか、神の本質であるとか、神の栄光の輝きであるといった「神の」が語られる必要がない筈であります。それと同様に神と等しいといった表現もとられる必要がないのであります。なぜなら「神だ」で一切が解決されてしまうからであります。要するに神の子イエスが「神」と呼ばれなかったからこそ「神のがつく色々の事が語られることになったのであります。 (p79~80)


私は初代教会の人々が「神の子」キリストを神のように信じ、礼拝したとしても「神」とは信じなかった訳は「主イエス・キリストの父なる神」が唯一の神たる事を、信仰していたからであると信じております。 (p81)


私が無教会主義の影響の強い札幌独立キリスト教会で体得した立場から申し上げますと、聖書のみ主義をもってはじまらない聖書第一主義の如きもののあることが考えられません。そして聖書のテキストをこえて、聖書以外の第二のものたる教義に聖書を従わしめることには賛成しかねます。氏の指摘されている神と同質という表現が、神の子にこそ適切であって、であればわざわざ神との同質を語る必要がないものと思われます。 (p82)



私には「聖書のみ」を優位とせぬいかなる主義も教義も危険なものであると思われます。そして聖書の外なるものに聖書を従わせようとする一切のものにこそ危険を感ずべきであります。それ故もし聖書のテキストからはいえないことで、教義の上からはいえるということがあれば、私は「聖書のみ」をえらぶものであります。キリストこそは主と仰ぐべき「唯一の主」であり、救主であり、神と人との仲保者であって正に「神の子」と呼ばれる方であります。キリスト教こそはある意味で仲保者宗教といわれるべきでありまして、神へはキリストを媒介にしなければなりません。そして聖書の神はあくまでも唯一の神であって「主イエス・キリストの父なる神」であります。 (p84)

キリスト教の神は、このイエス・キリストによらなければ知ることが出来ないのであります。聖書のテキストにおいて、私共はキリスト・イエスを知り、キリスト・イエスを知って、然る後に初めてそのキリスト・イエスの啓示した神を信ずるのであります。 (p87)


私にとっては少年の頃から、「十字架の福音」を危くする一切が「反キリスト」的なものとして警戒せしめられたのでありますが、その反キリスト的なものはいつも「信仰深い装」をもって現れてくることに気がつき、きびしい警戒を体得せしめられていたのであります。それで私はたまたま、キリスト論について聖書に書かれてある以外の或る意見や、或る教理が、あたかも聖書に忠実なものの如くに権威の座につき、かえって聖書自身をそれに従わしめているということもある、ということに気がついて驚いたのであります。卒直に申しますと、キリスト教会は、第四世紀の教理をもって、聖書のもつ真理を左右しすぎているのではないかということでありました。 (p88)



要するに、今までのキリスト教会が遵法してきましたいろいろの教義の中には、新約聖書の形成後何百年か経って、いろいろな事情がもとで、――勿論やむにやまれない事情があったのでありましょうが――何しろいろいろな事情で形成されて来た神学によって、作文されているものがあるということであります。それゆえ私はむしろ卒直に、現代神学や十六世紀の神学や更に四世紀の神学をのりこえて、聖書自身にまで立ち戻って、聖書の語る真理を学ぶのでなければ、あのすさまじい純粋な福音がわからないと主張した致したいのであります。 (p89~90)


私はもともとこのキリスト論を、福音を危くするという一点において採り上げたのでありますから、ただ興味本位に、キリストは神であろうか、人であろうかと議論をするわけではなく、また、神の子は決して神ではないといったようなことを、ただ述べさえすればそれでよいというのではありません。聖書の中に記されてある、「神」ではない「神の子」と呼ばれる人格の活動が、聖書の主題をなしており、福音の主体となっていて、我々の死と亡びと救いとがこの「神の子」に関るものであるということを、そして「神の子」の中にこそ福音の真理があることを、今更の如くに確信づけられ、これが一体間違いでしょうかと問うた所から、この議論が始まったものであります。  (p90)


キリスト教徒にとりまして、信仰の対象はキリスト・イエスであります。そしてキリスト・イエスの父なる神であります。しかるに、その最も大切なキリストとキリスト・イエスの父なる神が、常に論議されねばならないということは、確かに重大なことであります。実際、キリスト教では神観、キリスト観、或はその他のものでも、もう充分解り切ったといいきれないものが沢山にあります。(中略)信仰の世界は勿論知り尽せない世界であります。それ故ぎりぎりの点においては、謙虚に信ずる以外に道がないのであります。しかし、神とキリストとをただ信じさえすればそれでキリスト者といえるかと申しますと、そうではありません。キリスト者はあくまでも、聖書の語るところに従って信ずるのであります。しかし聖書を読むにも、ただ一ヶ所だけを読み、ここにこう書いてあるから、こうだと断定すべきではなく、特に問題のテキストがありましたならば、その前後を読み、或はその書を貫ぬいて読んでみる必要があるのであります。また時には、聖書全体の光に照らして読んでみることも必要となるのであります。そのような読み方が非常に大切なのであります。 (p96~97)


もし「キリスト・イエスが語りもしなければ、キリスト・イエス御自身が身をもって示しもしなかった神は、断じてキリスト教の神ではない」ということが承認していただけましたら、それならすぐそれでは、キリスト・イエス御自身の語った神はいかなる神であったかが問われるべきでありましょう。イエス・キリストの教え示した神は「天にいます父なる神」であります。ヨハネ伝の十七章の三節においてイエス・キリストは、「永遠の生命とは、唯一のまことの神でいますあなたと、またあなたが遣わされたイエス・キリストを知ることであります」と語っておられますが、このイエスが「唯一のまことの神でいますあなた」、というように呼びかけている神は、彼にとっては全くの他者であります。イエスにとって、祈は決して独語ではなかったのであります。あくまでも他者なる、唯一のまことの神に呼びかけている対話でありました。それですから、藤原先生のように「キリストは神である」といい切ってしまいますと、それではそのキリストが「我が神」と仰せになって祈られた神様は、「もう一人の神様」ということになってしまわないでしょうか。そうすると多神教への屈服が、ここから始まりはしないかと憂えざるを得ないのであります。 (p98~99)


人間の世界に関係する神的人格としては、一応神・神の子・天使があるわけであります。勿論、悪魔といったものも除外出来ません。こう申しますと人々は、ブルトマンの非神話化の時代に、天使でもあるまい、幼稚園や日曜学校の生徒でもあるまいし、というかも知れません。しかし私は聖書の中に書いてあり、またイエス御自身が語っていらっしゃるこのようなことは、一応心してよく読み、その意味することをよく考える必要があると思うのであります。聖書の中の、神性をもった「天使」といったような人格は、天の万軍ともいわれ――もし天使が神であるならば、ちょうど日本の八百万の神と匹敵するわけでありますが――聖書ではこの「神」ならざる天使が、いろいろ活動しているのであります。 (p102)