30.10.13

主著作より その2

(・・・続き 『福音論争とキリスト論』より)


聖書は、神性をもっていてもそのことですぐ「神」とは呼ばれない人格が、たとえば天使が、具体的歴史の場に活動していることを告げているのであります。東洋の思想からは、人以上でさえあればすぐ神になりますし、霊的な存在はみな神といわれるわけでありますが、中には人でありながら、生きている中に「神」となり、生神様になるような不屈な存在もあるのであります。しかし聖書では、神性をもっていて、東洋的にいうならば当然神々と呼ばれて然るべき存在が、決して神々とは呼ばれはしないのでありまして、その理由はあくまでも、唯一の神が厳然として居給う故であります。そういう意味において私は、神と等しい「神の子」でも「」または――「子なる」とよぶことは聖書の世界にはあり得ないことと思うのであります。しかもそれをキリストにあてはめるのは、「唯一神」の信仰をこわすことなしには可能なことではないと思われるのであります。  (p103~104)

ヨハネ伝の一章一八節に、テキスト上も内容上も問題があるというのであれば、ヨハネ伝全体から、そしてまた、更にヨハネ文書全体から検討して正しいかどうか調べてみるべきものであります。それと共にまた、聖書全体の思想と一致するか否かも検討すべきであります。このような心構えで聖書を読んでいきませんと、たまたまテキスト上問題のある所に来ました時に、これを正しく批判し、判断することが出来なくなるのであります。キリストについて語られる、先在時の呼称である「言【ロゴス】」とか「独り子」とか「独り子の神」(?)とかが時間を無視してそのまま受肉の人イエス・キリストにあてはめられるものか、また聖書があてはめているかとの問題は、充分検討されねばならないことと存じます。このような点からも、一・一八の問題は解決されるに至るかも知れません。  (p104~105)

聖書も一応史的文献でありますから、いろいろ写し間違いがあったことが考えられます。良いテキスト、悪いテキストなどということもいえるでありましょう。しかし、テキスト研究の立場から申しますと、良いテキストよりもむしろ、悪いテキストの方が興味をもって注目せられるものでありまして、相互に比較検討してみて成程ここには問題がある、それでその問題となった事情や理由を、追求してゆくという所に文献学的な面白い研究が開けてくるのであります。それで、ヨハネ伝において「独り子の神」というような言葉があるとか、無いとかいうこととは別に、一体ヨハネ伝には本当に「子なる神」という思想があるのであるかが、より高度の意味をもつ問題としてとりあげられなければならないことでありましょう。するとここ以外聖書のどこにも「子なる神」という言葉は、出て来ないということがわかります。それだけに問題となる言葉であることがわかるのであります。  (p105)

ヨハネ伝ではキリストは、私は父から派遣されたのだ、私は自分の思うことを実践しているのではない、父から命ぜられたことをしているのである、私の語る言葉もこれは自分から語るのではない、父が命ぜられた言葉を語るのである、と申され、父が命じなければ何事も出来ない、とさえ申しておられるのであります。キリストはこのように卒直に「出来ない」という表現をさえ用いておられるのであります。このような点に、キリストと神との関り合いの秘密がほのかに物語られているのではありますまいか。キリストの先在時は、本当に神と等しい方であった!それは確かに聖書の証言する所であります。ピリピ書には、そういう言葉が明らかに出て来るのであります。しかしここに問題となりますのは、もし「神」であったら、何故神と「等しい」という表現をとるのかということであります。キリストはその先在時では「神」であったといってしまえば、それでもう解決がついて、わざわざ神のように、とか神と等しく、とかと語られる必要がないのではありますまいか。  (p106)

 
疑い深いトマスが甦りの主を見て「我が主、我が神よ」と叫んだのでありますが、これは甦りが、それ程の驚きを与えたとみてよいのでありましょう。(中略)しかし同時にイエスはここで「我が父」(ヨハネ二〇・一七)と再び「神」を呼んでいることに気がつくのであります。すなわち、十字架上においては、イエスには「我が父」が失せ、ただ「わが神」のみがいましたのでありますが、その「わが神」さえも見失われるに至ったことが、贖の死の真相であったのであります。要するに問題は、弟子が彼を何と呼んだかより、彼は自らを何と示したか、そしてまた自らを何人となすことを求めたかにあるのであります。 (p107)

唯一の神であるとか、創造主であるということに優先するのは先ず、主イエス・キリストの父と呼ばれる「我らの父なる神」であるということであります。すなわち、あくまでもイエス・キリストによって啓示された神、「父なる神」において、創造主であり、唯一である神を知るのでありまして、イエス・キリストなる仲保者を除外しては到底知り得べくもない神であります。この唯一の神はまた、見えない隠れたる神で、霊なる神であり、天にいます父と呼ばれる神であります。霊であるとか、天にいますというのは、隠れたるとか、見えないとかいうことを意味する言葉といえると思います。(p111)

聖書では神は創造主(creator)と呼ばれておりますが、然し創造の実践者は御子と語られているのであります(ヘブル一・二、コロサイ一・一六、ヨハネ一・三、三・三五)。ヨハネ伝で、遣す者(神)と遣される者(神の子)といった関係が、創造の時には、「命ずる者」(父)と「命の実行者」(御子)という関係になっているようであります。先在で「独り子」とか「御子」とか呼ばれ、ロゴスと呼ばれる人格が、いわば創造の責任者でありまして、創造の仲保者ともいうべき責任者であります。(中略)聖書の語るところを綜合して考えますと、御子は父なる神に対し、創造の破れの責任をとりなさって受肉して世に来られた、それは破れの直接原因たる人間の罪の解決のためであったというのであります。そしてこの受肉した方を、我々はイエス・キリストと呼んでいるのであります。そしてこのキリストは、受肉前は「名」をもって呼ばれたことがないのであります。 (p111~112)

甦りなさったキリストは、受肉前の「御子」「独り子」(中略)に戻られたかというに、そうは語られてはいないのであります。聖書にははっきりと、甦った主は、甦りの体をもって先在時とは異なる「神の子」(中略)として、地上の名をそのままに、イエス・キリストとして天にて、執成す者になったというのであります。 (p113)

私共が御国に召された時には霊魂だけがふわふわしているというようなギリシャ的なものではなく、やはり父なり、母なり、或は兄弟なり、それが地上の肉の姿で相まみえるという、具体的な救いの状態が示されているのであります。 (p114)

私は、とかというものは、それぞれ主体を持つ存在だと思います。父は父、子は子でありますから、父と子と表現されるものは複数であって単数とはならない筈であります。それ故、父なる存在と子なる存在が、区別出来るが分離出来ない〝一つ〟なる存在となり得るとは考えられないのであります。私は主体性をもった父と子というものは、全く別なるものとして理解すべきであると思います。 (p116)

四世紀の神学にどうして、我々までもが屈服しなければならないのでしょうか。私共は、四世紀の神学を乗り越え、聖書の語るところに、すなわち霊が激しく働き、教え給うた原始の福音に立ちかえるべきではありますまいか。藤原先生のキリストは、聖書のキリストではなく、「四世紀のキリスト」であります。もし藤原先生のいうように、キリストが神であれば、クリスマスは神が生れたことになりはしますまいか。 (p118~119)

神は人の表現をとるなら固有名詞をもった個人、「ダビデ」なら「ダビデ」という二人とない唯一の人格をさすべきであります。それ故ダビデの子がダビデでない限り、「神の子」は神ではないのであります。  (p119)

黙示録は御座に座する方(神)と、御座の前にいる永遠から屠られ給いし神の「小羊」とをいつも対立して語っているのであります。しかしなるほどあやしい所がないわけではありません。けれども、小羊といった表現を以て表わされた人格が「神」であるとか、または「神」を意味するというようなことは、聖書の立場からはないことなのであります。「人」を以て示してさえ、「神」を意味することはないからであります。 (p120)

「ダビデの子」なる名称はただ地上においてだけの名称でなく、甦って後の天においても用いられていることに注意すべきであります。これによれば、我等の地上の生活は消え去るものではなく、天においても――記念されて続けられることを意味するものでありましょう。 (p120)


キリスト・イエスは、いわゆる三位一体の「神」でなかったからこそ、ゲッセマネにおいて神へ祈りを捧げ、御心ならば我よりこの盃をとり去り給えと訴えたのでありまして、決してドラマの演出ではないのであります。神と一体ならば、いわば神とのひもつきならば、もう一切が何から何まで解っているのでありますから、祈る必要もないし、血の汗を流して訴えるということもいらないのであります。 (p120~121)


十字架に上った時には、本当に贖の死を遂げるものとして、神のみ顔が消えてしまったのであります。彼はもう、父よ、と呼べなくなりました。それ故に詩篇の言葉、日頃暗誦なさっていたかもしれないその詩篇の言葉の「わが神、わが神」という他人行儀の言葉を用いて、而もその「わが神、わが神」が「何で我を棄てたもうたのか」と叫んだのであります。いつでも神を「父よ」と呼んでいた人格が、十字架の上で我が神としか呼べず、しかもその神に何故私を捨てたもうたのかと、神との断絶、神の審きによる滅びのギリギリのところまでをくまなく体験して、死と呼ばれるものの真の死を、死に給うたのであります。それが贖罪の意義なのであります。ただ死んでしまえばそれでいいのではないのであります。彼の死があくまでも贖罪の死であることにこそ意義があるのであります。私はそういう十字架の福音を考えます時に「神の子」キリスト・イエスはあくまでも「神」と呼ばれてはならないこと、四世紀の神学をもって律すべきでないことを教えられるのであります。 (p121~122)

キリスト論は、各自の信仰告白以上に、聖書神学の課題としてとり上げられるべき性質のものであります。初代のキリスト教徒達のキリスト論は、いわばその多くは、平信徒神学者達によって論ぜられたものであった事を思いますなら、現代に於ても平信徒が自由に神学し、自由に発言して、旧来の伝統の束縛を去り、真理に肉迫する事が必要でありましょう。 (p127)

「言【ロゴス】」は「神の言」ではありません。勿論「神の語る神の言葉」でもありません。ブルトマンの正しく指摘しておりますように、この「言」には神のといった修飾がその上についてはいないのであります。ただ「言」とのみ語られていることに充分注意しなければなりません。ブルトマンによれば、ヨハネ伝の「言」は旧約聖書の中にも、ユダヤ教の中にも見出せない言葉であると言います。(中略)「言」はキリストの受肉前、すなわち、先在時の呼称として使用されているものでありますが、受肉した後の「具体的神の子キリスト」を指しては一度も使用されたことがないのであります。「ロゴスとはキリストだ」(中略)は明らかに間違いでありまして、正しく表現するならば「ロゴスの受肉者がキリストだ」というべきであります。(中略)ヨハネ伝の基盤をなしているのは「言」が受肉した(一・一四)という告知であります。すなわち、ヨハネ伝は、ロゴスの受肉を説いても、決してその逆の受肉者のロゴス化は説かないのであります。それ故「言」はキリストだということも、キリストが「ロゴス」だということも、何れも明らかな間違いであります。クルマンのいう「時」が、聖書では重大な意義をもつものでありまして、「時」を無視しては何事も語られてはいないのであります。それ故、先在特有の呼称がそのまま受肉後の歴史の人(キリスト・イエス)に使用されるということは、決してあり得ないのであります。先在――受肉――死――昇天を語るときに、その間の「時」を無視して、平板的に物語られることは、新約聖書には見出せないことであります。(中略)「神の言」が、人格として語られているのは、原則的にはないのでありますが、ただ黙示録の一ヵ所だけに (一九・一三)使用されているのであります。ここではたしかに、キリスト・イエスを指しております。しかしそれも昇天したキリスト・イエスにあてはめられているのでありまして、決して歴史の人キリスト・イエスについてではありません。歴史の人キリスト・イエスは一度も「神の言」といわれたことがないのであります。 (p129~130)

ヨハネ伝の「言【ロゴス】」について、問題となるのはやはり、「言は神であった」であります。ヨハネ伝冒頭のこの短かい一文(一・一)において、二度出てくる神【セオス】が、同一ではないことは、冠詞の有無ばかりでなく、その意味の上からも明らかであります。「言はセオスと共にあった」のセオスと、「言はセオスであった」のセオスとをいずれもただ「神」と訳してよいかは問題であります。無冠詞のセオスは、セオスでもこの場合、実体的神を指しているわけではないからであります。それ故、両方共に神とだけ訳しては不適当であります。「神と共にあった」の冠詞をもつ神は、ヨハネ伝が語る父なる神であります。しかし「言は神であった」と訳されている無冠詞の神は、意義の上からも父なる神を意味するものではありません。(中略)あとの方のセオス、すなわち、冠詞なきセオスがもし、なんらか実体的神、藤原氏の言う「子なる神」を指すものといたしますならば、ロゴスがもう一人の神となって、二柱の神が語られることになり、多神論への屈服となります。(中略)要するに「ロゴスは神であった」の冠詞なきセオスを、神と訳さず、説明語の divine と訳したモファット訳は、原著に忠実なものといえましょう。ヨハネ伝が、ロゴスをキリストの先在時の呼称としたことは、明らかであります(一・一四)。しかし、それだからといって「時」の介在を無視して、ロゴスはキリストだ、とは決して語ってはいけないのであります。それと同様に、ロゴスは宇宙を創造した(一・三)と語っても、(中略)「キリストは万有の創造者」だ(一一六頁)とは語ってはならないのであります。ヘブル書、コロサイ書を見ても、創造の業をなした人格を、御子と語っても決して、キリストとは語ってはいないのであります。要するに、先在時ではいかなる呼称が用いられても、キリストとも、イエスとも語られることはなかったのであります。(中略)「神の独り子の名」(ヨハネ三・一八)とは、独り子が受肉してつけられた名、すなわち、キリスト・イエスであって、「独り子」と「名」との間に、受肉の出来事が介在しているとみるべきであります。  (p132~134)

ヨハネ文書にのみ見られる「独り子」は、ヨハネ伝に四回、ヨハネ第一書に一回見られますが、ヨハネ一・一八では、「この独り子」に「神」がついていて「独り子の神」となっております。「独り子の神」は全新約聖書を通じてただここにだけ記されており、キリスト教史における「子なる神」の教理出現の聖書的根拠になっているものであります。(中略)写本問題については、モノゲネース・セオス(独り子なる神)はたしかに三、四世紀迄の東方アレキサンドリヤ学派で権威とされていたものに出て来ます。しかし、モノゲネース・フィオス(独り子)の方も二つの例外を持ってはおりますが、全てのラテン系写本に見られます。(中略)写本にあるかないかの問題については、一応コイネ写本は問題としても、優れた古シリヤ訳写本にある事はその有力さを失わぬものと云えるでありましょう。(中略)日本語訳で「独り子の神」と訳されたものは、文法上から見てそのように訳されてもよいのですが、ヨハネ文書の使い方から云って、アクセントはセオス(神)には無く、むしろモノゲネースにあるのであります。それで、ヨハネ文書的な訳し方をしますならば「神なる独り子」と訳す方がよいでありましょう。(中略)もしアクセントがセオス(神)にあるならば――すなわち、神を実体的に表現するならば、「ホー」なる冠詞をつけるのが自然であります。要するにアクセントが「独り子」にあるという事は、ヨハネ文書中他に四回「独り子」なる言葉が出て来ていることからも充分考えられる事であります。しかも独り子丈で充分意味の通ずる箇所に、神なる、という問題の説明語がつけられてある事について、冷静なテキスト・クリティクを試みる必要があるでありましょう。(中略)一・一八について、「独り子」とするも「神なる独り子」としても、或は又「独り子の神」としても、何れもイエス・キリストの先在時の呼称であります。それ故――受肉前、受肉後といった「時」の介在を無視して、只平板化してキリストは「子なる神だ」「神なる独り子だ」と呼んではならないのであります。すなわち、一・一八についてはテキスト上「独り子の神」を採用したとしても、それでキリスト・イエスを「子なる神」とする根拠として用いるには「時」がきびしく介入していて、それを妨げている事を知らなければなりません。それ故一・一八のテキストについては、モノゲネース・セオスをとったとしても、父の懐にい給うた神格者である「独り子」が受肉して世に来て、人には見えない天にいます「父なる神」を啓示したと解すべきでありましょう。(中略)セオスにアクセントをおき、セオスを実体化して「子なる神」「独り子の神」と解するよりは、あくまでも「独り子」にアクセントをおいて「神格をもつ独り子」と解すべきが至当でありましょう。 (p138~144)
 

ヨハネ伝のキリスト発言の中には「子なる神」なる神については只の一度も語られてはおらないのであります。すなわち、キリスト・イエスはいかなる意味においても自らを「神」として物語り且つ示しはしなかったのであります。たとえ神にひとしいとまで語られても、神への従属的地位を外す事がなかったのであります。ヨハネ伝のキリスト・イエスは、いわば神とひとしいが、神そのものではあり給わぬ「神の子」でありました。(中略)要するに、ヨハネ一・一八はそのテキストのいかなるにせよ、歴史の人キリスト・イエスを「子なる神」と為す根拠とはなり得ないのであります。 (p145)

ヨハネ第一書五・二〇について(中略)「また神の子すでに来りて、我らに真の者を知る知識を賜わりしを我らは知る。しかして我らは真の者に居り、その子イエス・キリストに居るなり、は真の神にして永遠の生命なり」であります。この「真の神にして永遠の生命なり」といわれるは、その前の「その子イエス・キリスト」を指すように思われるのであります。そうすればこれは、使徒行伝二〇・二八以上にイエス・キリストを「真の神」と呼んだ明白なテキストとなるわけであります。しかしこの「彼」は「真の者」を指すと主張する人もありまして、問題となる「彼」であります。ヨハネ第一書の性格は神の子を対比しながら論述していることであります。「神がその生み給える独り子」を世に遣わして、生命を獲得せしめ給うたことの中に「神の愛」が顕現しており(四・九)「神がその子を遣わして、我等の罪の為に宥【なだめ】の供物となし給うたことが愛そのものである」(四・一〇)と教え、「御父と御子」(二・二二―二四)とを明白に区別して論述しております。そのヨハネが、最後の五章二〇節の短文の中に、再び「神の子」と「神」(真の者)とを区別しながら論じておりますが、この二〇節なる一節の後半に「我らは真の者に居り、その子イエス・キリストに居るなり」と語ってから「彼は真の神にして、永遠の生命なり」と申しているのであります。これは文章として見て問題であります。(中略)これはむしろ、ヨハネは「神」と書くべき所を「真の者」と書いてしまったので、あとでその「真の者」たる彼こそ、真の神であると説明したものと解する方が、文章としても内容上からも妥当のように思われるのであります。(中略)私は一応、イエス・キリストを「真の神」といっているかの如く思われる、この言葉をとりあげてみました。しかしヨハネ第一書を貫く、イエス・キリスト観より致しますならば、イエス・キリストは「神」に対する「神の子」であり、「御父」に対する「御子」であって、決して「神」とはなっておらないのであります。それ故、問題の五・二〇もまた「テキスト」を検討するとともに、あくまでもこの書全体の光りで判断すべきものであると存じます。かく検討を加えてみますなら、これは「イエス・キリストを真の神」と呼ぶ意味のものではないことが理解されるのであります(中略)ブルトマンは『ヨハネ伝全体の主題は、「言は肉体となった」(一・一四)の記事である。これはドケチズムの教師達への防衛である』と述べておりますが、ヨハネ第一書においては、言葉の上では更に一層明白に、イエス・キリストの「肉体」性を主張して、ドケチズムへの戦の書であることを教えているのであります(四・二)ドケチズムとは一言でいえば「イエス・キリストは神である」であります。(中略)死も、甦りも、みなみせかけで、「十字架の福音」もないわけであります。(中略)当時「イエス・キリストは神である」のドケチズムと、戦うために書かれたヨハネ文書の中でも、特にこの第一の書は冒頭から、決戦の態勢を持して書き出しているのであります。イエス・キリストは特殊な人格だが、ドケチズムのいうように「神」ではないと。それが主題であり、それと共にドケチズム派の非倫理性への批判をかねて論じたものであります。(中略)要するに、対ドケチズム宣言の書としてヨハネ第一書を見なければ、真にこの書の主張する所とその価値とを、理解できないのであります。それ故、五・二〇のように文法上問題の所が出て来ましても、その文書の書かれた背景と目的とに反するような読み方をするべきではなく、目的に合致する読み方こそ正しいものと言わなければなりません。 (p146~151)

ロマ九・五は聖書の中で、句読の仕方により幾通りに読める一例として、よくとり上げられるものでありまして、サンデー等の研究はよき引合いに出されるものであります。(中略)五節に入って父祖達も同胞に属しており、キリストとても肉によれば、同胞の系統から世に出でたものである、というのであります。肉によれば、と明記して歴史の人たるキリストを指しております。しかるに五節の後半で、そのキリストが万物の上にあり、永遠に讃むべき神なり、と読まれるのであれば、意味の上からもどうでありましょうか。歴史の人が万物の上にあって、そして永遠に讃むべき神と語られますならば、パウロのキリスト観も神観も直ちに崩壊してしまいましょう。(中略)パウロの慣習によれば、永遠に讃むべきものは「創造者」であり(ロマ一・二五)「主イエス・キリストの父なる神」(コリント後一一・三一)であります。又聖書に於て讃むべきかなと讃美すべきは「私たちの主イエス・キリストの父なる神」(エペソ一・三、ペテロ前一・三)であります。 (p153~155)

ギリシャ語の意味するプロスクネオは、神を礼拝する時と、人に対して丁寧な挨拶をする時とに、等しく用いられていたのであります。(中略)氏は、福音書に、このプロスクネオがイエス・キリストに用いられた所があり、そのような場合、イエスが、プロスクネオの態度をとった人のその態度を拒否することもなく、嘉納しておられるのは、彼が自らを神と自覚しており、否、神であったからである、とこのように論じ、もしキリストが神でなければ、キリスト以上の冒者はないことになる、と断言し、「神以外のものを拝することは、偶像礼拝だと聖書は教える」(一〇〇頁)と断乎と勇ましく言い放っておられます。その言葉の一部は正しくあります。しかし、このようないわゆる一部分の正論が、しばしば飛躍した結論をうち出してしまいますのは、神学を真に神学したことのない神学校卒業者の、よく犯しがちな誤りであります。(中略)イエスを、癒すもの――おそらくキリストではあるまいかと考えた癩者が、敬虔なプロスクネオの態度をもって、イエスに相対した(マタイ八・二)ことをもって、イエスを神として拝した、と解釈したのは失敗でありました。(中略)唯一の神を信じていたユダヤ人は、神殿の壊れぬ間は神殿に詣でて、神を礼拝したのであり(ヘブル九・一)偶像神を拝する異邦の国民【くにたみ】は、それぞれ偶像神の前に額突いて拝んだものでありまして、道行く人をつかまえて、神として礼拝を捧げるということはありませんでした。(中略)いわゆる「生き神様」といわれるものでも、礼拝の対象となる時は、儀式を伴うものでありました(徒一四・一一―一三)。異邦の女が、イエスへの信仰の極みに、彼女自身が生来神となす者へ捧げていた、敬虔な態度をもって挨拶したからとて(マタイ一五・二五)、イエスがそれをもって、彼を神としたことと認めなければ、その態度を叱る理由も、拒否する理由もなく、そしてまた、あえて嘉納するということもあり得ないのであります。(中略)要するに、プロスクネオは、神礼拝のみを意味せず、高度の敬礼を表わす際も用いられるものであることを知りますならば、イエスが、そのような態度をとるものを、拒否しなかったことはあたりまえでありまして、それをもって、イエスが神そのものである証拠、と断じたのはまことに、思慮なき軽卒な判断といわねばなりません。 (P161~164)

北森教授も金井為一郎先生も藤原氏も、黙示録をとりあげて、イエス・キリストが礼拝の対象となっているから「神」だ、と主張しました。しかし「神のみを拝せよ」(一九・一〇、二二・九)とは黙示録の重大宣言であります。(中略)黙示録の舞台には、「御座に座する者」――その姿は光につつまれ、形としては見ることのできない方が居給うことが語られており(中略)それに反し、昇天したキリスト・イエスを指す神の小羊は、いつも形が見えており、その行動も鮮かに語られております。聖書では、小羊をもって表現される人格が、を示すということも、神として拝されるということも決してないことであります。ここにはっきりと申しておきたいことは、私は、神の子にいます主イエス・キリストを、信仰の対象として、礼拝の対象として仰ぐものであります。神の子は神としてではありませんが神と等しい「神の子」として、私には礼拝の対象であります。しかも、ただ「神の子」なる故ばかりでなく、あくまでも彼は私の「贖主」でありますから、私にはプロスクネオとラトレウオの対象なのであります。(中略)北森教授も金井先生も、藤原氏と等しく五章をとり上げ、神と一緒に小羊(キリスト)をも礼拝したと解釈し、かつ主張なさっておられます。実際そうかも知れませんが、そうでないかも知れせん。黙示録にはよく似た場面が度々出てきますから、よく対比してみるべきでありましょう。四章では、全能者としてまた創造主として、神のみが礼拝されております(八―一一)。七章では、救は神と小羊とから来る、と讃美されながらも、ひれ伏し拝すときは神を拝す(七・一一)とことわり、十一章では、この世の国が、われらの主とそのキリストの国となった。主は世々限りなく支配なさるであろう、と大声が天に轟きながら、いざひれ伏して拝するときは神を拝す(一一・一六)と語られ、また、創造主を拝せ(一四・七)とか、或はまた直接神に呼びかけて、あなたを伏し拝む(一五・四)とか、礼拝の対象を極めて明白に、御座にいます方(一九・四)と限定していることなどは、注目すべきことであります。すると五章だけが例外と思えなくなるのであります。(中略)黙示録テキストの上からは、神のみを拝せよ、という時に、神の子はどうなのかが明らかでない所もありますが、どうも礼拝されてはおらないように思われます。なお、黙示録の舞台においては、小羊のいます位置は、神の御座より前方にずれているようであります。そして、いつも光景の中に入って来て、その行動が見えており、あくまでも見える存在となっております。しかし、それに反し、神は見えないようであります――特に終末までは(二一・三)。それ故、救の完成されるまでは、「神を見る者は死ぬべし」が強く支配しているのでありましょう。黙示録におけるイエス・キリストは、永遠より屠られたまいし小羊として、原歴史的表現がとられております。しかし、屠られた小羊は常に、神に対して、民の為に屠られるものであって、小羊自身が「神」であるとか神を表すとかいったことは、旧約聖書の中にも、もちろん黙示録の中にも見出せないのであります。祭壇が設けられております以上、屠られたものは、神の座より祭壇に近いところにいるわけであり、(中略)当然大祭司の立つ恒例の場所である祭壇の近くでなければなりません。 (中略)要するに、ただ神のみを拝せよ、といいながら黙示録の世界では、神の他に、神らしき存在としての小羊がいるのでありますが、小羊はどうなるのか、五章に疑わしい所が出て来ますが、その他では礼拝されてはいないようであります。(中略)「ダビデの子孫」はいかなる意味でもと呼ばれることはありません。ダビデの子孫を「子なる神」とすれば、ダビデは神の父――父なる神になってしまいますから。 (p167~170)

キリスト・イエスはあくまでも「神の子」としてのみ、その人格の秘義とその救済活動とが理解されるものであります。「神の子」とは、先在、受肉、死、甦、昇天、再臨を通して語られる呼称であって、救済史を貫く意味をもつものであります。(中略)黙示録は、人としては、救の初穂であるキリスト・イエスは、天上では「神」としてではなく、自らダビデの子孫として名乗り給うことの中に――勿論その実体は天使とひとしい(ルカ二〇・三六)霊の体をもっていても、確に「人」たることの中に、兄弟と呼び給う「人間」(ヨハネ二〇・一七)の救の終末時の実状も約束され、物語られているのでありまして、これは実に大きな問題であり、新たな契約であります。 (p170~171)

キリスト・イエスの場合は、真に人であるという点は動かし得ないことでありますが、その他に語られ、表現される言葉が、「真に神」ではなく、真に「神の子」なり、であります。これが聖書の告知するキリストであります。実にキリストこそ、独り子と呼ばれた神の子の、天より受肉して世に来り給うた人格であります。聖書の告げる通りに、真【まこと】に人(ヨハネ一・一四、ヨハネ第一書四・二)であって、真に神の子(マタイ一六・一六)と告白せらるべき人格であります。「神の子」なる呼称こそ、先在、受肉、死、甦、昇天、再臨、を貫いて語られる唯一の存在であって、聖書の語る秘密は、この「神の子」なるイエス・キリストにあるのであります。これはいかに神と等しくても、イエス・キリストを「神」としては理解出来ない秘義なのであります。 (p181)

主イエス・キリストがエホバなるイエス・キリストという意味だと解釈致しますならば「時」を無視し、歴史的啓示を打忘れた、非聖書的発言と言わねばなりません。エホバは旧約聖書では主と呼ばれた神でありました。しかし新約聖書では神はエホバと呼ばれることはなく、又主とも呼ばれることはないのであります。旧約のエホバは新約ではイエス・キリストの教え給うた所に従い「父なる神」と呼ばれているのであります。(中略)イエス・キリストを主と告白することは、エホバとか神とかと告白することでないことは、主と呼ばれるさいに、しばしば同時に、神が――「父なる神」が呼ばれていることで知りうるのであります。父なる神が唯一の神である世界に於て「主イエス・キリストの父なる神」と呼ばれる時に、主が「神」をさしたり、イエス・キリストが「神」であったりする筈はないのであります。新約聖書では、旧約を引用した際は別でありますが(黙示文学を除き)とはイエス・キリストが神にとり立てられた地位(徒二・三六)であって、もはや「神」を意味して語られることはないのであります。 (p183~184)

キリスト教の起源は、死人となり墓場に葬られたキリスト・イエスの復活によるものなのでありますが、イエス・キリストに於ける死は不定過去形で、一回的過去の事件である事を示しております。それに反し復活は、常に完了形の受動態であります。すなわち復活は過去に完了し、それが現在に及んでいると云うのでありまして、イエス自身の中なる力による復活ではなく、彼の外からの力による復活、神の力によって甦らせられた事を意味しているのであります。聖書に於ては神と呼ばれる人格に死はなく、必然に復活もありません。新約聖書の証言からはもしキリスト・イエスに死がなく、復活がなければ贖罪の意味は消えてしまいます。すなわち、ドケチズムがキリストは神である、と主張してその肉を否定し、必然に死とそして復活を否定しました所に、福音を危くする恐るべき異端性があったのであります。キリスト教の福音がイエス・キリストの十字架である限り、イエス・キリストの受肉性、歴史性――徹底的人たる事を否定してはならないのであります。否限りなく主張されなければならないことであります。かかる聖書の告知する受肉を徹底致しますならば、受肉者(肉体をもつ人)は神と呼ばれずあくまでも歴史の人であり、しかも歴史の中からの歴史の人ではなく、天より来た歴史の人でありまして、この事が受肉した神の子の意味なのであります。 (p185~186)

私には旧来のキリスト論に於て、真に人と告白する時に、一体どの点までキリスト・イエスの人なる事が追求せられたことか、そして又真に神であると告白する時に、一体どこ迄その神である事が深く証しされ、探られたかが誠に疑問に思われるのであります。(中略)私がキリストをただの歴史の人となす事に反対致しますのは、彼は天より来た――天の思い出を持つ、すなわち、神より命ぜられた事柄の鮮かな記憶に生きる「神の子」であったからであります。そして又彼を神と仰がないのは、受肉という出来事は聖書の「唯一の神」に関る出来事ではなく、それはあくまでも神にとっては他者である「御子」と呼ばれる人格に発現した出来事であって、そこには常に唯一の神が彼の父として――他者としていますが故であります。そして彼の死が真の死である為であります。要するに、イエス・キリストの受肉前の状態が、その神的姿にも似ず神と呼ばれずに「神の子」と呼ばれたのは、父なる神のみが「神」と呼ばれる「唯一の神」であったからであります。(中略)後の世の教会がイエス・キリストを「真の人」として、聖書証言に従い十字架の福音と甦りの福音を信じつつも、その昔戦ったドケチズムの「真に神」を附加したことは、ドケチズムに勝ちながらもその異教的魅力に打ち負けたことによるものと見なければなりません。 (p186~187)

ヨハネ一〇・二三以下三八までについて(中略)イエスの言われたのは、二五―二九節のように、彼にとって、神がであることを主張して、それによって彼が「神の子」であるということをしめし、その終りに「わたしと父とは一つである」と言ったのであります。すると、それをユダヤ人は自分を「神」とした言葉と解釈し、それ故神を汚したこととして、石で打ち殺そうとしたのであります(三三節)。それで、イエスは「父と一つ」といった言葉の、いわば解釈の誤解――ユダヤ人が「神」と解釈した、その誤解をとく為に、『父が聖別して、世につかわされたものが「わたしは神の子である」といったからとて、どうしてあなたは、神を汚すものというのか・・・・』と答えられたのであります。「父と一つ」とはイエスにおいては「神の子」を意味することでありました。(中略)キリスト・イエスは「父と一つ」を北森教授や藤原氏の如く、であること、神と一体であることの意味に語っていないのは、キリスト・イエス御自身で「神の子」の意味だと語っておられることで、理解されるのであります。そしてその「神の子」とは、ユダヤ人のいうように、「神」ではないからこそ、どうして「神を汚すもの」というのかと反問されたのであります。(中略)ユダヤ人が、イエスが自らを神としたものと解釈して打ち殺そうとしたのは、イエスが「父と一つである」といった時であり、決して氏の言われるように「神の子」、といった時ではありません。またその後に、イエスが「父と一つである」ということは、「神の子」を意味するのだ、と説明してからは、ユダヤ人はイエスを殺そうとはせずにむしろ、「イエスを捕えようとした」(三九節)というのであります。要するに、このテキストは、ユダヤ人が――イエスが自らを「神」となしたと誤解したときは殺そうとし、「神の子」と言明したときには捕えようとした、という出来事を語っているのであります。 (p187~189)

キリストが被造物であるといったような意見を、私は、一度も言ったことも書いたこともありません。キリスト教の初歩を学んだだけでも、そんなことを言う訳も、書く訳もないのであります。しかし、私は、その先在時の「御子」なる人格が、果して、被造物であったか否かについては、論じたことは一度もありません。天上の事柄は、聖書の示す範囲をこえて論じてはならないと信じているからであります。(中略)創造の実践者たる「御子」と「父なる神」との間には、果して創造行為が介在しているものか否かは恐らく人の議論を超える性質のものではありますまいか。なお又、一体「父なる神」と先在の「神の子」との関係の真相を究明しなければ、どうしても福音的理解に達し得られないものかどうか、――私には福音的理解については必ずしも必要なこととは思えないのであります。日本語訳の旧い訳には「神はその生み給える独り子を世に遣わし・・・・」(ヨハネ第一書四・九)と語られて、生み給えるという言葉で神との関係を示しております。又創造物に先立って生れた方(コロサイ一・一五)ともしるされ、父と子との関係は、創造関係より生む関係の方が真実に近いのでありましょう。父が生むもおかしいのですが、そのような言葉でしか示されないものとして、理解すべきものなのではありますまいか。しかるに、黙示録三・一四には、「神に造られたものの根源である方」と語られてありますが、この「神に造られたものの根源である方」というテキストのテキスト・クリティクが、なかなか簡単に処理出来ないと思われましたので、深く触れることをしなかったのであります。少くも、創造の出来事においては、創造の側に立つものとして御子が語られており、この意味においては、聖書の語る被造物の側に御子が立つことはないようであります。ただ父なる神との関り合いは、父と子と表現される、そのような表現でのみ語られ、又それ以外にはいかなる表現を以ても語られ得ない関り合いだ、と言うべきものなのでありましょう。そうすれば、父と子との関りの中には、創造の業の介入を認めることが出来ないのではないか、と思われるのであります。 (p190~191)

私は、ヨハネ一・一の短文中においてこそ、セオスに冠詞のあるかないかが、重き意義を持つものであると主張したのであります。両方のセオスを、実体的に解釈すると二神論となり、同一のセオスを示すことになればこの一文は、「言は父なる神と共にあり、言は父なる神である」といった変なことになりますので、冠詞をもたないセオスは説明語として、モファツトの如く訳すことが正しい、と主張したのであります。(中略)氏は、どう感違いしたのかすっかり昂奮して、神【セオス】に冠詞のない言葉を聖書の中に、夢中になって探したようであります。遂にありました。マルキオンが問題にしましたロマ一・一八であります。(中略)『小田切君によれば冠詞のない神は神ではなく被造物であるから、そうするとロマ一・一八は「被造物なる神の怒り・・・・」ということになるが、それでよいか』であります。冠詞のない神が被造物であるとは、私の意見の何処から引出したのかわかりません。(中略)ロマ一・一八は「神の怒り」でよいと思います。一般論としましては、セオスの冠詞の有無で、一定の型にはめた議論をすべきでないと思います。しかし少くもヨハネ一・一については、文体上及び文意上からも問題になることは当然であります。冠詞は書き落したり、写し落すこともあるでありましょう。しかし、一応その有無について注意を払うべきことは当然でありますが、一般論としては「神」と訳してよいと思います。ロマ一・一八の場合の如きは「神の怒り」でよいと思います。しかし、この神の怒りを、冠詞のない理由で神的怒り――意味の上からは聖なる怒りと訳出したといたしましても、それ程文意を乱すものとは考えられません。しかし、藤原氏のようにこのところを「被造物なる神の怒り」と訳して見せるのでは、問題になりません。 (p192~194)

婚姻の秩序は、たとえ如何に「一体」と語られても、あくまでも夫は夫であり、妻が妻であります。花婿は花婿で花嫁は花嫁であります。そのようにキリストはキリストで、教会は教会であります。それ故、第四世紀になって出現した三位一体の教義の語る「一体」を、もし以上のような意味に解釈いたしますならば、父なる神、神の子、聖霊が一体として語られてよいのでありまして、三位なる非聖書的言葉の作製は必ずしも必要が無かったのではありますまいか。聖書の思想からは父・子・聖霊が一体であるばかりではなく更にそれに、救われた人々の群れや万有もまた加えられて、一切が一体となるのであって「一体」の意義は更に更に拡大されているのであります。勿論終末時を指して語られる以外、父・子・聖霊については、常に「一体」が語らるべきでありましょう。万物がキリストに帰一し(エペソ一・一〇)そのキリストが神に帰一して(コリント前一五・二四及び二七~二八)ここに一つの王国――神の国が形成せられ、父なる神・聖霊・神の長子とその兄弟らと、更に天使と語られる存在や万有の全てが一つとなり、一切が一つの国――王国のものとなるというのが、聖書が物語る神の国の完成であり、一つとなることの意味なのではありますまいか。 (p197~198)

「父と我とは一つなり」(ヨハネ一〇・三〇)の一つは三位一体の教義に於ける一体とはその意味を異にしないでありましょうか。そして私にはこのテキストを三位一体の教義に合致すると見ることは、適当とは云い難いと思われるのであります。なぜなら一つなりを聖書の語る一つの思想から論じますなら三位一体の語る意味の一体とはならないからであります。すなわち、旧約並びに新約聖書の告げる「一体」の思想からは、第四世紀神学が告げるような三位一体の思想は生れては来ないのであります。(中略)要するに、聖書の一体の思想からは三位一体の教義のもつ一体は出ては来ないのでありまして、第四世紀の神学を以て、錦の御旗式に考え、その教義不信を以て異端となす事は、聖書的には正しいとは言えないのであります。 (p198~199)

出エジプト記三・一四の神の御名にわれは実存すると云った哲学的思惟を移入して解釈しようと試みることは正しい聖書釈義と云えないでありましょう。 (p200)