19.11.13

主著作より その5

「神の子」なる皇帝が「神」であり、「主(キュリオス)」なる皇帝が「神」であるように、神の子なるイエス・キリストは、恐らく容易に「神」として取り扱われるようなことも起きたことでありましょう。しかし、ロマにまで宣教したパウロは、そのような危険を察知して、神を「イエス・キリストの父」と呼び、唯一の神と説明し、主と呼びうるは唯【ただ】一人で、イエス・キリストこそ唯一の主であると論じたのであります(Ⅰコリント八・四ー六)。パウロは「主」も「神の子」もイエス・キリストに適用する際には、明らかに皇帝に適用される場合と峻別していたのであります。すなわち、パウロにおいては「神の子」も「主」も決して「神」ではないのであります。それ故、キリストは「神」であると主張する人々は、「神」を聖書的な「神」より、異教的な「神」、皇帝並な「神」に変えているわけであります。それは、もはやキリスト教ではないのであります。このような点からも、キリスト教の非異教化を徹底しなければならないと存じます。 (p291)
 

(注)管理人が、特に重要と思う文言をこの色マークしています。


新約聖書によれば、イエス・キリスト自ら「父」と呼んだ方以外に、いかなる「神」もあり得ないのでありまして、使徒達は、かかる「神」を「主イエス・キリストの父なる神」と呼んだのであります。これが、まさに新約聖書の教える唯一の「神」なのであります。信ずべきは「三位一体の神」ではなく、あくまでも「主イエス・キリストの父なる」神であります。  (p303)

「死」から「甦り」への中間時――福音無き屍時代――のもつ意義はあく迄も危険なドケチズムの否定であります。すなわち、神の子イエス・キリストは神であるという――ドケチズム的に神とする――ことを否定しているのであります。 (p321)

キリスト教は、神の子イエス・キリストの「甦り」を基として、人間の甦りを主張いたしますが、異教思想が語るような、いわゆる、霊魂不滅説を説くものではないのであります。「陰府に下り」の思想は、いわば霊魂不滅思想でありまして、復活思想に反します。これは聖書の中なる異教思想として、十字架の福音の光で除去すべき部分にぞくするものと思います。ここに非異教化の必要が認められるのであります。 (p321)

キリスト論としては、あくまでも聖書をして真に聖書たらしめている「十字架の福音」に中心をおき、その「十字架の福音」の光の下で、もう一度聖書を読み直し、まず、聖書自身の中心と周辺を、そして、それは当然聖書のキリスト論の中心と周辺でもありますが、その点を充分識別し、時には聖書の中の異教化したキリスト論をも見出して、これを非異教化し、「聖書本来の論理」としての「キリスト論」を捉えるべきであると信ずるのであります。そして、これらのことは「十字架の福音」に立ってのみ可能であると信ぜられます。  (p327~328)

ヨハネ黙示録によれば、終末時には、人類史を動かした悪魔的勢力が亡び、その勝利のために戦った神の使としての「天使」も、最後の証言とともに姿を消すようであります。そして、最後は救われた者(小羊、いのちの書に名のしるされている者)が神の都の民となるというのであります。すなわち、その「都」には神と神の子ら(その中には自らダビデの子孫を以て任ぜられる人なるイエスと、彼によって救われた人々)が住むというのであります。ここではもちろん、神の唯一性は変りませんが、ただ三位一体論の言う「聖霊の神」は見られません神も霊人も霊だからでありましょう。また「子なる神」もありません。キリスト自ら「ダビデの子孫」を以て任ぜらる「人」であって、たとえ「神の子」ではあっても決して「子なる神」ではないからであります。しかも「屠られた小羊」という表象で「都」の中央にいまして、いつまでも贖いの主たる事実を示しておられるのであります。しかも、その彼は「都のあかり」として輝いているのであります。要するにキリストなるイエスは、逆に「神」―「子なる神」―と呼ばれることはないのであります。 (p329)

聖書が語る「神の子」について、これを綜合的に判断致しますならば、先在し、受肉し、十字架に死んで甦り、昇天したと語られているのでありまして、そこには「時」に従っての出来事の順序が示されております。しかし、その中心は、先在よりも、後在よりも、むしろ、受肉して人となったという点にあるといえましょう。すなわち、「歴史の人」としてのイエス・キリストが主役を果していることは当然なことであります。しかし、先在後在が語られる以上、そしてまた「神の子」と呼ばれている以上、どうしても、ドケチズムの香りが漂うものでありまして、一歩誤れば、いつでも、異教の神となる危険性をもったものであります。すなわち「歴史の人」であるイエス・キリストの歴史性が少しでも弱められ、不確実なものとなる傾向を示しますと、直ちに先在から後在が容易に結びついてしまい、その間の歴史は、たちまち立ち消えとなり、一切がドラマ化されることになってしまい、ドケチズムに堕して福音を危くしてしまいます。福音を追求して信仰生活を続けてきました私には、これは実に重大な問題だと思われました。すなわち、イエス・キリストの歴史性を危くし、福音を危くするものは、早々とヨハネ文書が指摘したように、イエスの「肉体性」(歴史性)の否定であり、イエスをドケチズム的な意味で「神」となすことでありました。そして、このような観点から考えますに、イエス・キリストを「真の人、真の神」となし、或は三位一体の二位格の神となすことは、そのいずれも、ドケチズム的な危険を犯すものであるということを知るのであります。要するに、キリストも使徒達も教えず、語りもしなかった神観である「三一神論」が後になってから出現して、しかも重大な地位を占め、強力な伝承となったことは誠に遺憾なことだと思います。「神の子」イエスは自ら、神を霊にして不可視な唯一の「真の神」と教えられましたが、後世、教会がその「神の子」イエスの証言を退け、イエスを指して「あなたも神だ、第二位格の神だ」と告白するようになったことは、まさにキリストの悲劇であり、またキリスト教の悲劇でもあります。これをキリストの神観からすれば、まさに反逆的意見とこそいうべきものであります。なぜなら、イエス・キリストを神とすることは、多神教に堕し、彼の十字架の死をドラマ化し、彼の真の使命を破壊し、福音を危くするからであります。 (p330~331)

十字架の福音を正しく理解する為には、殉教死と贖罪死との区別を徹底的に理解する必要があると思います。キリストの十字架の死は、たしかに、殉教の死とも犠牲の死ともみえるものがあります。しかし、もし、キリストの十字架の死をそのようなものと考えますならば、その後、キリストを信じて十字架の死を遂げた多くの殉教者達の死と全く同じように理解され、唯一の十字架は消えてしまいます。新約聖書が語るイエス・キリストの死は、決して殉教の死、犠性の死ではなく、あくまでも「贖罪の死」でありました。それが福音なのであります。 (p332)

私は初代キリスト教徒の躓きを取り除こうとしたルカやヨハネのキリスト論的記述よりも、躓きに満ちた言葉をそのまま保存したマタイ、マルコの方に、より史実性を認め、そこにこそ殉教死ならざる贖罪死の真相が窺えるものと信ずるのであります。 (p333)

ロマで記されたというマルコ伝の告げるイエス・キリストの終末は、(中略)神を信じた神の子の最後とは到底思われないものがありました。たしかにマタイ、マルコの記したこの叫びは、ルカ、ヨハネが除去した程に、伝道上には大きな障害をなくしたものと考えられます。日本においても、いさぎよい死を称賛する武士の子らは、この一言に躓いて、信仰に入り得なかったということも、決して少くなかったのであります。しかし、躓きは来らざるを得ずと語られ(マタイ一八・七)キリストが躓きの石(ロマ九・三二)と語られているように、この言葉は、たとえ、ルカやヨハネによって取除かれ、他の言葉をもって置きかえられていても、断じて失われてはならない言葉でありました。なぜなら「神の子」の言葉には時として、人間の常識を越えるものがあったとしても、それは、むしろ当然だからであります。しかも、そのような言葉にこそ、神の子の実存が垣間見られるからであります。(中略)殉教死ならざる贖罪死を遂げるという、大いなる事件の身に迫りつつあったイエス・キリストには、それ迄のように、周囲の人々を顧みるどころではなく、ただ、ひたすら、神と彼との不思議な関わり合いに思いを結集し続けねばならなかったのでありましょう。そして、十字架にかかり、万民の罪を贖うという「贖罪死」を遂げんとする、その瞬間に、イエスは今までの沈黙を破って、ほとばしり出るが如くに一つの謎の言葉を叫ばれたのであります。それは、贖罪者たるイエス・キリストの贖罪瞬間の心境、すなわち、贖罪時の実存状況を示す真実の叫びであったのでありましょう。すなわち、神の子であり、仲保者であり、救い主であるイエス・キリストとても、受肉した「歴史の人」であり、人の子である以上、その双肩に担い難い「贖いの死」の重圧に、思わず口をついて洩れた叫びがこの言葉であって、まさにこの言葉の中にこそ、彼の死の瞬間の実存心境が、そして「贖罪死」の堪えがたいきびしさが示めされているものではありますまいか。――たとえ、その叫びが、詩篇の中に記されていた言葉そのままの形であったーーとしても。私は十字架の神学を語る前に、十字架の事実としてマタイ、マルコの書き残したこの資料に注目し、この資料の中に贖罪の秘密を洞察すべきであると思うのであります。すなわち、この言葉にこそ、贖罪の使命の重さに耐えかねた歴史の人なる「神の子」の魂の悲鳴、魂の悲嘆と苦悶とを発見せしめられるからであります。ここにおいて私は、贖罪とは、まさに神と「神の子」との交わりを断ち切るほどのきびしさを伴う事実であったことを示されるのであります。あるいは、そのような断絶の為される内実にはさらに深くきびしいものがあり、人の想像介入を許さぬものがあるのでありましょう。 (p334~335)

ルカは、キリストの死も、ステパノの死も、信仰の英雄の死、いわば聖者の死として描いているように思われるのであります。ただステパノの場合は、呼びかける対象が、死より甦れる天上の「活ける主」であり、キリストにおいては「神」であるという点だけがちがっているのであります。(中略)私は、ルカやヨハネの記したイエスの「十字架の死」の記述より、マルコ、マタイによる躓きに満ちた記述の方に、より多くの歴史性を認めざるを得ないのであります。なぜなら、イエス・キリストの死を、ステパノの殉教の死と同様に考えることができないからであります。すなわち、私はステパノの殉教の死とは異なる贖罪の死をマタイとマルコの記述の中に見出し得ると信ずるのであります。 (p335~336)

神の子イエスはステパノのように天なる神の栄光を見上げることもなかったのであります。(中略)神の栄光どころではありません。神の御姿が全く見失われ、常日頃、父よとのみ呼びかけていた神に対しても、死を前にした今、その呼びかけさえも許されず、僅かに「わが神」とのみしかよべなかったという神の子の不思議な心境に、限りなく注目せしめられるのであります。その理由がいかなるにせよ、人間的には絶望の死を遂げたとみられる十字架上の死にこそ「贖いの死」を立派に死に遂げたイエス・キリストの実存が、ひそかに垣間見られるのではありますまいか。(中略)ステパノの死はまさに殉教の死の典型的なものでありました。そして、これこそ殉教の死の特徴なのであります。然るに神の子、イエスの死は、このような殉教の死とは全く違っていたのであります。(中略)ここではイエスは人に棄てられ、人に殺されるばかりでなく、神にさえも見棄てられるというのでありまして、何処にも逃れる道がなく「贖いの死」という「死」を遂げる神の子の実存と、これを「贖いの死」として認め許す神ご自身の実存との火花の散る対決、交渉の一端が、奇しくもイエスの側の一つの叫びによって爆発し、示されたともいえるのではありますまいか。そして、神との絶縁のもとに為し遂げられた、この「贖罪死」の瞬間には――それゆえーー三位一体の信条の介入する余地がなかったということも明白なことであります。私は「贖いの死」という史上「唯一の死」を死んだ「神の子」の実存状況を垣間見ることの許されるこの叫びに、人の口から叫ばれた最大な「戦慄すべき秘義」とも言うべきヌミネースな叫びを認め、恐れとおののきとを禁じ得ないのであります。 私共は四福音書において、イエスの説教や、イエスの喜び、怒り、行動の中に多くのイエスの実存に触れることが出来るのであります。しかし、私共はこの際、私共の実存に触れるイエスの実存を遠く眺めるばかりでなく、時にはイエス・キリストご自身の実存にわけ入るということが、真にキリストを信じキリストを理解する道であると思うのであります。私のキリスト論の願いも、このような点にあるのでありまして、ただ遠く十字架を眺めて瞑想する十字架の神学より、十字架の事実そのものに肉迫することが必要であると信ずるのであります。私共は神にさえも見棄てられて、「贖いの死」を死に遂げられたキリストの実存に、深き畏れと感謝とをもって迫ることの努力なしには、救の恩恵を知り得ないのではないかと思われるのであります。贖罪の死を示すイエス・キリストの十字架の死は、パウロにとっては第二の創造と関わるものでありました。少なくもパウロは十字架の下において、新たな被造物(救われた者)としての彼自身を体験していたのであります。もし、このように十字架の死が第二の創造をもたらす力でありますならば、キリストの十字架の死こそは、万有創造以来の大事件として、理解されなければならないでありましょう。「贖罪死」の重さは、まさに、この点にあるのであります。(中略)このような神とのきびしい断絶の場においてなされた贖いの出来事を、福音として信じるものにとっては、少なくも「贖罪死」の瞬間においては、三位一体の信条の主張するような神と神の子の一体と、その連続関係の思想は破壊しつくされているものといわざるを得ないのであります。私は、神の子の贖罪死を、信仰的英雄や聖者の殉教死と混同しようとする思想や神学から峻別し、福音の真実に徹するよう努力すべきであると信じます。 (p336~339)

キリストによる啓示を問題とする時に、もし別に聖霊による啓示が取り上げられますならば、啓示の二本立てが認められることにならないものでしょうか。使徒行伝の聖霊の降った記事(二・二ー四)から考えますに、聖霊と信仰者との結びつきは直接的で仲保者がないために、もし聖霊を聖霊の神と表現致しますなら、この聖霊の神は、丁度異教における神と人との関係のように無媒介性に人と結合することとなって、その点一寸危い面が出てはこないでしょうか。私には、聖霊とキリストとの関係がなかなかむつかしく思われます。(中略)キリストと聖霊との関係がなかなか理解し難く思われます。(中略)聖霊とキリストとの関係が多様であって理解がむつかしく、これらに比して、ペンテコステのもつ意義がどの程度のものであるかに迷います。  (p341)

初代のキリスト者はイエスをナザレ人と呼び、神の僕と呼び「神の子」と呼んでも、少しも「神」とか「子なる神」とは呼ばなかったように思われます。しかし、神の右にあげられたと証言する以上は、神的存在と化したものと認めており、ステパノの如く(徒七章五九-六〇)また、パウロの如く(Ⅱコリント一二・八)祈りの対象ともなったようでありますが、それでも彼を「神」と呼ぶためには、唯一神の伝統がそれを許さなかったのではないかと思います。(中略)黙示録では天使が活躍し、(中略)まさに、神的存在――いわば、神性をもった存在でありますが、しかし、そのことで直ちに神と呼ばれていないことも重要なことと存じます。それは、キリストの神性を信ずることをもって、直ちに飛躍的にキリストを「神」――「子なる神」とすることの決して聖書的ではないことを示しているものと思われるからであります。 (p342~343)

パウロの回心第一声が「イエスこそ神の子である」(九・二〇)、イエスはキリストである(九・二二)ということで――対象がユダヤ人のせいか、イエスが「神」に代り得る人格であるかのような発言を致してはおらないようであります。(中略)パウロはキリストを「神が人になった人格」とか、「ナザレのイエスのままで神だ」とか、甦ってから神になったとかと語ったことはなく、またキリストについては決して「神か人か」といった証言の危険を犯すことなく常に神の子で押し通し、異邦人にはメシヤより理解しやすい、キュリオスをもって説明したもののように思われます。しかし、そのような説明の中にも、とくに、異邦においては、将来キリストの神化するきざしの萌え出る気配は見られるところであります。しかし新約聖書の時代までは、そのようなことは起きなかったと思われます。 (p343~344)

聖霊と言えば、それは実体的なあるものなのでしょうか。どうもよくわかりません。 (p344)

実は、私は長い間「人が神になる」という思想が異教思想であると同様に、「神が人となる」という思想もまた異教思想であると思ってきました。キリストについてはあくまでも「神の子の受肉者と証言しているのが聖書証言と信じ、「神と人」「神と被造物」との間に「神の子」と呼ばれる仲保者が存在し、創造――救済ーー終末を貫き仲保者たる「神の子」が、ある大いなる使命を果していることが聖書の主題と思われ、聖書では神と人とが直接に結合しないのが特徴であると思っております。(中略)もし、キリストを「神」とすれば、受肉も死も甦りも――意味を失うように思われます。なお使徒行伝では「キリストが死人の中から甦った」と言いますが、――同じ著者はルカ伝で甦った主の体にがあって食事さえもしたといっており――、またルカは使徒行伝では昇天して神の右に座しているというのですが、をもって神の右にいますとでもいうのでしょうか、なかなか理解し難くあります。 (p344~345)

私自身キリスト論を取り上げても、聖霊論との関わりにふれなかったのは、聖霊論が一歩誤れば異教的なものになりやすいとおそれたためであります(仲保者なき神が現われる危険がありますため)。また私には、人間に関して語られる霊の問題、さらに高い意味で語られる聖霊という霊の問題は、聖書に即してすら統一的理解に達し難いむつかしい問題と思われます。 (p345)

十年間、受肉のキリスト――それ故十字架に死んだキリスト、その死が「贖いの死」という「唯一の死」であったことなどを中心に学び続け、キリストは、「受肉の神の子」でも「受肉の神」ではないと考えて、福音を理解せんと努力して参りました。そこに私のキリスト論についての願いと祈りがあった訳でございます。 (p345~346)

ヤコブ書は――パウロ的福音を追求する人々には好まれ難い書翰であると存じます。しかし、その書が新約聖書の一部をなしていることは必ずやそれだけの意義や使命をもつものと考えざるを得ません。(中略)ヤコブは信仰と行為との関係についてアクセントを行為に置き、信仰をやや従属的に見ようとする意図をもっていることを認めざるを得ないと存じます。そしてヤコブ書では旧約的表現にひきずられて新約の香りが弱いような気がしてなりません。一・一によれば著者は一応十字架の光を浴びているのでありましょうが、十字架をことさら説かないような点に問題性を感じます。(中略)福音は、本来、人間の側に強さが出ては危いと思われます。人間が弱く、神の強い所に福音があると思いますが、ヤコブ書には「行いによって信仰をみせてあげよう」(二・一八)といった勇ましい自信の程が強く、そこにはいわゆる、福音的破れがないように思われます。著者が徒一五・一三――以下に発言しております主の兄弟ヤコブでありますなら――どうもあまり福音的な人と思えませんから、この程度のことを書いたのかも知れないーーなどと思わしめられますが!(中略)ヤコブ書のもつ性格も前福音的なものと理解し、ユダヤ教からキリスト教への、ごく初期の渡し舟のようなものと理解してもよいのでしょうか(一寸言いすぎかも知れませんが)。(中略)ヤコブ書で一寸気になりますのは「霊魂のないからだ」(二・二六)とか、神が「わたしたちの中に住まわせた」(四・五)といった言葉の中に多少でも霊肉二元的な香りが出てきはしないかということであります。(中略)ヤコブ書の終りにみられるの内容が旧約的意味(神)を持っているものが多いように思われますが、神のとキリストのが、ことわりなく記されているのに一寸不思議に感ぜしめられます。それからまた「義人の祈りに力がある」とか、迷いの道から引き戻すことを、その霊を死から救うといった表現の中には、キリストの十字架の影が見えないように思われます。そして、ヤコブ書にはいわゆる、キリスト論があるのかどうか、一・一以外にはキリスト証言には力が入っていないように思われます。端的に言って、ヤコブ書は福音前的性格を持ち、ユダヤ教からキリスト教への架け橋的性格をもっていて、ユダヤ人をしてキリスト教に近接せしめる使命をもったものとの印象を深く致します(中略)ヤコブ書にはキリスト論が未熟なのか、キリスト論というべきものがないのか、一寸判断に苦しみます。  (p346~349)

聖書的な意味で霊とか肉とかを理解せずに、異教世界に常識化されているような分離し得る二元的なものと考えますならば、霊が肉より離れ、独自に生きることもあるわけで、もはや復活を福音としてきびしく説く理由がなくなるものと存じます(もちろん、比喩的意味や終末的意味でイエスの物語の中にも似た思想が出てきますが)。聖書的には霊魂不滅という思想が人間にはなく、ただ福音の力で初穂のキリストに続き、死人の中から甦って、そして始めて永遠の生命が与えられるということのほうが聖書的ではないかと思います。もちろん現在終末の意味でも、そのスタイルには変りなく、やはり死して甦ることが、永遠の生命に関わることとして語られていると存じますが、このような点に問題を感じております。 (p350~351)


『十字架の死――甦り』が福音であるためには神の子の受肉が徹底的に語られて、イエス・キリストが真の人であることが中心でなければならないと存じます。(中略)神が死ぬとか、神が死んで甦るというのはどう見ても異教的思想と思われますし、神が人となるということも異教思想と思われます。やはり受肉したのが「神」ではなく、神と等しい「神の子」であったということが聖書的であり、それがキリスト論の前提となり、福音の前提となるものと思われます。そのために「神の子」とか仲保者とかと語られておりますような、いわば、神ならざる、しかし、神に等しい「神の子」という人格に、聖書の謎がひそんでいるのではなかろうかと考えられ、それをひそかに追い求めているのが私のキリスト論の願いでございます。
追伸
人における「」の問題、さらに高い聖霊という霊の問題など私にはなかなかわからないことでございます。 (p351~352)


愛といっても、正義と表現しても、人の場合にはそれには罪の香りがつきまとっていて、神の愛や正義と同様に考えてはならないというように考えまして、ことさらにそのような点を主張したことがございます。しかし、それがキリストの場合はどうなるかに問題を覚えました。ヨハネ伝においてはキリストが神ご自身のもつ職能を与えられていて神と等しく敬わるべきであるということでありますから(五章)神に用いられるすべての事柄がキリストにも、そのまま、適用されてしかるべきでありましょう。また、その意味から神について語られている〇〇(一・八)が天上のキリストに用いられてもよいのであろう(二二・一三)と考えられます。そして、また、神と等しく栄光・讃美をうけておられることも理解されます。しかし、黙示録において昇天したキリストを小羊と多く呼んでいるのは――小羊といった呼称が聖書では「神」に適用されたことのないことから、しかも、その小羊が屠られた小羊と語られていることから――当然黙示録のキリストが「神」または「子なる神」として取り扱われていないように思われますが、この点はいかがなものでしょうか。小羊とは、地上の十字架の死を記念して語られている呼称と言えるかも知れませんが、天上においても地上の呼び名である「イエス」あるいは「ダビデの子孫」「ユダ族のしし」が用いられているのは、受肉の出来事が仮の出来事でなく、永遠に関わる、そして永遠に記念される出来事を意味しているものというべきかと存じます。そうしますと、イエスの「受肉した歴史の人」であることが極めて重大な意味をもつものと考えられます。 (p352~353)

(注)〇〇は、ギリシャ語の「アルファ」と「オーメガ」の二文字。


黙示録のキリストは聖なる御使以上の存在で、全く神的存在であります。すなわち、神性者でありますが、小羊と呼ばれたり、ダビデの子孫と呼ばれたり、イエスと呼ばれたりしていることから「神」そのものとして取り扱われておらないように見えます。むしろ、地上のときの「人」のままで神性者として取り扱われているように見えます。ここでも神はやはり他者で、人の目には見えない、ただ光のみが見える存在で唯一であるように思われます。確かに天上のイエスは、神的存在でありながら彼自身を、わが神(三・一二)わが父(三・五)と呼んで「神」に対していることから――唯一の神のいます世界ではーー彼自身が神とは呼ばれてはならないということ、すなわち彼はあくまでも「神の子」(二・一八)と呼ばるべきだというように理解されますがいかがでしょうか。五章の終りでは、神と同時に小羊もまた礼拝されているようにみえますが、ステファヌスの三版を用いている永井訳では「神に」対して平伏しているように記されてあり、礼拝の対象が「神」らしく思われます。他の場所をみますと(四・一〇、二・一、一六、一四・七、二二・三、九)黙示録の記された時代までは、小羊を単独に礼拝するといったキリスト礼拝が、まだ、なされていなかったのではないかと想像されますがいかがなものでしょうか。なぜならば、神のみを拝せよ(一九・一〇、二二・九)が強い主張とみえるからであります。 (p354~355)

(注)小田切氏の注で、「神のみを拝せよ」は口語訳に従ってのことで(本文では「ただ神だけを拝しなさい。」)、原典では「神を拝せよ」となっていることに注目すべきのこと。


黙示録のドラマ的位置を考慮致しますならば、神の御座の正面に小羊がいますわけでありますから(五・二八、七・一七)神に礼拝を捧げるにしましても、どうしても位置からは小羊を通し貫いてなされなければならないと存じます。この際、小羊の背後にいます神を考慮せずに、神の御座の前の小羊だけに礼拝がなされたか、そして、祈さえなされたか、は問題だと存じます。なお、神への祈も、キリストの名によって捧げられるという習慣のでてきたことからも、天上のキリストは仲保者の性格を失ってはいないと存じます。献げられる「祈」すらもキリストに止まるより、一見キリストに止まるように見えても、結局は神に執り成されるものではないでしょうか、それとも、神より一切の権を授けられた単独者として祈とか礼拝の対象でもあるのでしょうか。黙示録を見ても、キリストを「神の子」とか「ユダ族のしし」とか「ダビデの若枝」とか、小羊とかと表現すること以上に、「神」と表現することは新約聖書の時代にはなかったように思われますが如何がなものでしょうか。 (p355~356)

(注)「五・二八」の「二八」は誤記で、五章なら「八」節か「一三」 
   節ではないかと思われる。


私としましては、イエス・キリストの死と甦りが福音であるためには、イエス・キリストが受肉の人であって、受肉の神でないことが語られる必要があり(それが共観福音書のもつ意味であると存じますが)同時に、その死が贖いの死で将来天で小羊と呼ばるべきものであることが理解されませんと、福音を危くするものと存じます。どうしても「神の子」と呼ばれる神と等しい存在が、仲保者として神と人(被造物)との間に立つことが福音の前提であると考えさせられます。聖書的には、ただ「人が神になる」という思想ばかりでなく、「神が人になる」という思想も異教的であると考えられます。人となったのは、たとえ、いかに神に似ていても神ではなく「神の子」と語られる所に福音の基礎があるように思われてしかたがありません。 (p357~358)

人における霊の問題、さらには高度の聖霊の問題は私にはなかなかわからないことであります。 (p358)

キリスト教をして、真にキリスト教たらしめているものは、ケーリュグマであります。すなわち、キリストなるイエスの十字架の「死」と「甦り」であります。それ故、ケーリュグマに立って考えますなら、キリスト教とは広い意味における贖罪宗教(十字架の福音)として受けとめてもよいでありましょう。そして、もし、キリスト教が贖罪宗教でありますなら、当然イエス・キリストが「人」でなくしては成立しない宗教と言わねばなりません。イエス・キリストがあくまでも「歴史的人格」であるという、その歴史性が弱められますと、ドケチズムの襲うところとなって、福音は破れてしまいます。(中略)「十字架の」が真に「十字架の福音」となりますのは、甦りの出来事によるのであります。(中略)イエスが死んでも、屍体となって甦らぬ間は――いわば、それは、いまだ、福音形成がなされてはおらない時でありますから――その期間に死んだ肉体から「霊」が脱出して、陰府【よみ】宣教という福音的実践活動をなしたということは、当然誤りでありましょう。なにしろ、それはまだ福音が生まれていないときのことでありますから。その意味で、私はⅠペテロ三・一八――以下の、いわゆる使徒信条の「陰府に下り」は、キリスト教的な告白と認めることが出来ません。これは、当然取り除くべきだと考えます。このような福音にそむく信条はキリスト論が――後期ユダヤ教にも見られる――異教的二元論人間観と結合したためでありまして、これを排除しなければ、福音として語られる「甦り」が徹底しないと思います。このような点に、キリスト教には広い範囲での非異教化を必要とするものがあると信ぜられます。要するに私は「陰府に下り」を考えただけでも、使徒信条唱和の習慣について一考すべきものがあると考えます。 (p360~361)

福音を正しく理解する目的で、「キリスト論」と取り組み十五年になりました。それなのに、まだ、まだ「キリスト論」の道は遥けく、遠く、私の地上生涯のはてる迄続くことでありましょう。(中略)「キリスト論」を携えて生きてきました十五年の年月は、過去四十年余の信仰生活の中で、最も心に波瀾の多かった年月でありました。しかし、この間、聖書に対し、情熱【パトス】 をもって相対することの出来ましたことは確かに幸なことでありました。楽しく嬉しくて眠れぬ夜もあった程に聖書を楽しむことも体験出来ました。そして、そのような日々はたしかに、生きていることの実感を高めました。 (p369)

私はこの著書でいつぱしの聖書通のようなことを申し述べておりますが、なにしろ、まだまだ聖書学の一年生に過ぎません。あるいは、一年生とさえ言えないかも知れません。それ故、この著書の中には多くの見当違いがあったり、誤解があったり、時には奇抜な聖書釈義が飛び出したりしてバラエティに富むことが面白いかも知れません。私としましては、平信徒が自由な心で聖書を楽しみ、聖書について自由に大胆に論じ、かつ問うことの出来るような気風を、日本キリスト教界に育てて頂きたいと望んでおります。いま、省みて多くのことに問題を覚えます。私は「十字架の福音」といって、それがわかりきったこととして論じておりますが、「十字架の福音」は人それぞれの実存論的受けとり方もあり、一定の型に定めがたいものであります。もちろんパウロの「十字架の福音」を論じながら、さらに幾人かの先人の議論も参照して、私は私なりに私自身の「十字架の福音」観を――一章を設けてでも――論ずべきであったかと思います。しかし、この著書自身が私の「十字架の福音」観から生まれ出たものでありますから、随所に私の「十字架の福音」観がにじみ出ていると思います。 (p369~370)