6.11.13

主著作より その4

(・・・続き『キリスト論・ドイツの旅』より)



問題は、キリストを「神」とするか、「人」とするか、といったような単純な議論ではありません。ケーリュグマが成立するか、消滅するか、十字架の福音が生きるか消えるか、キリスト・イエスの語ったみ言葉が徹底的に取り上げられるか否か、という厳しい問題となるわけであります。(中略)神の恩恵の歴史、啓示の歴史には繰り返しはありません。「神の子」ご自身に関わる時間的な経過、すなわち、先在、受肉、死、甦えり、昇天、再臨という聖書の語る「神の子」の時期にもまた、繰り返しはないのであります。すなわち、それは、一度去れば再び帰ることの許されない「神の子」の「」なのであります。私共は、そのような「神の子」の「時」のもつ深い意味をさぐらねばなりません。神の救済の歴史の中にハイルス・ゲシェーエン(救済事件)として示された、御子の受肉と、御子の「贖いの死」と甦えり、というこの大いなる神の恩恵の秘密を学び、理解する為には私共は心して聖書の御子について学ばなければならないと思います。 (p126~127)


天皇が亡くなられた時には「神」になった、「神去りました」といい、神霊的存在としてゴット(神)的性格をもつにいたったことは当然なことと存じます。明治天皇も亡くなられて後に、明治神宮に神として祭られたものでありまして、死後に神格化されるにいたったものであります。要するに、実感的には、生ける天皇は「上」的性格をもち、死せる天皇は「神」的性格をもつものとして取り扱われていたといえましょう。 (p128)


ヨハネ伝のロゴス、あるいはコロサイ書、ヘブル書にみられる「子」――「神の子」――には、被造物という思想はないように思われます。このような新約聖書証言からは、ニケア、カルケドンが反対したあの被造物は出てこないと思います。むしろ創造の側に立ちつつも「神」と呼ばれずに、「子」とか「ロゴス」とかと呼ばれている、というそのような人格である点に限りなく注目し、その意味するところをテキストに従って追求すべきであると思います。 (p129~130)


パウロの如きは、しばしば「死人の中から甦えらせられた」という表現を用いて、活けるキリストを説明しており、黙示録においても屠らた小羊として、また、かつて死んだことがあると明記し、常に十字架の出来事を付随せしめ語っていることに注目すべきであります。それゆえ、もし、今「活きているキリスト」に重点を置くならば、一種の神秘主義的傾向に堕し――過去が軽くなり――「贖いの死」を遂げたという歴史的事件(福音)が弱められる危険が出てまいります。そして、そこには必然にドケティズムへの傾向が現れてくるものと考えられるのであります。要するに、霊なる「活けるキリスト」も――あくまでも、十字架の死を死に、死人となって墓に下って、甦えらしめられたという、この歴史の事実が常に付加して語られる――「活けるキリスト」であってこそ意味があるのでありまして、(中略)キリスト教は、ほんらい、歴史に執着した宗教でありまして、キリストについても歴史と関わりなくなるか、あるいは、その歴史性が弱められるようなことにでもなれば、キリストは歴史から浮き上った単なる「新しい神」となって、ドケティズム化することになります。したがって、キリストの歴史的な面はいい過ぎる位に語って、始めてケーリュグマが正しく成立するものといえましょう。私が、キリストの歴史性を主張致しますのは、それが、初代キリスト教徒のケーリュグマ(福音)成立上欠くべからざるものであったからであります。 (p130~131)


三位一体はキリストご自身の教説から導き出すことも、パウロの思想から導き出すこともむつかしいものであります。(中略)神――仲保者ーー人という関係無しには贖罪が成立しないのであります。三位一体説の如く、仲保者を神として、神の唯一性を破って、仲保者のもつ特殊な地位を危くすべきではありません。また、ユニテリアンの主張するように、ただの人として十字架の死を殉教の死となすのであれば、そこには「贖罪」が成立致しません。「贖罪」は、聖書が語るように、イエス・キリストを「神の子」(仲保者)と考える以外には成立しないのであります。聖書の中心――キリストの中心ーーは、神に対しては「子」であり、人に対しては「贖いの主」であるところの人格、すなわち、神と人との仲保者なしには考えられません。イエス・キリストは人であるが、「天より来た受肉者」としての「人」である点に、啓示が人間歴史に介入していることを知るのであります。それが福音の条件であります。三位一体の思想からは死んで屍となった三日間でさえも、神との一体性を主張しなければならないでありましょう。屍と一体の神は聖書の神観とはいえません。また、無理に一体性を主張しますならば、死が死とならず、屍も真の屍とならず、「贖いの死」といわれるものが芝居化するという危険を生じ、福音を危くすることになりましょう。三位一体は四世紀にとっては必要信条であったかもしれませんが、それはキリスト教本来の思想に反し、ギリシャ化したものと考えます。 (p131~132)


啓示には、「啓示されるもの(神)」と「啓示するもの(神の子・キリスト)」と、その「啓示を受けるもの(人)」とが設定されているといえましょう。聖書の神は人間の目に見えず、人間理性の捉えることのできない人格でありますから、啓示を必要とします。その啓示の極致は、神と等しい人格――「神の子」と呼ばれる人格――が受肉することによって成就されました。これが福音の基本的条件であります。そして、これが聖書の主張する「神の子」イエス・キリストによる「神啓示」なのであります。 (p132)


要するに、いかなる意味においても「歴史の人」でなくては、贖いの死は遂げられないのであります。キリストを神の座につけるならば、必ず、受肉の出来事が弱められ、ひいては贖いの死の厳しさが失われてしまいます。ここに、私がイエス・キリストを一〇〇%の受肉者【ひと】と表現する理由があるのであります。そして、一〇〇%の死であってこそ、「神」の前に「人」の罪を贖うという「贖いの死」の厳しさが出てくるものと考えられるのであります。 (p133)


キリストご自身の釈義からすれば「父と一つである」ということは「神の子」であるということだというのであります(ヨハネ伝一〇・三六)。それゆえ、私はその通りに信じたのであります。「神の子」は父である「唯一の神」の唯一性を危うくすることになってはならないと思います。(中略)キリスト以外に神を全く啓示しうる者がないとの意味では、神がキリストの中にあったといわれるのでありましょう。しかし、それも、彼が唯一の啓示者であるとの意味でありまして、決して、彼が「神」自身であることを意味するものではありません。 (p134)


聖書の神観からは神ご自身が天から降【くだ】って、人となるという思想はないと思います。すなわち、神が受肉するとか、受肉した神とか、「肉体をもった神」といった思想は、聖書の思想ではないと思います。(中略)イエス・キリストが天からきたという思想は、明らかにロゴスの受肉を意味することであり、天にいました「御子」が、人として、歴史的生誕をなしたことを意味するものであります。すなわち、その意味では、聖書は彼がただ、歴史の中から生まれ出た存在ではなく、天に起源をもつ存在として、主張しているのであります。しかし、天よりきたことをもって「神」というべきではなく、聖書の示す通りに「神の子」と信じて、立派に筋が通るのであります。(中略)キリストの先在を聖書的に信ずるならば、その先在時は彼が神的人格であったことを認めることは当然であります。聖書はかかる神的人格(神の子)の受肉を語って、救の出来事(ケーリュグマ)を告げるものでありまして、決して神ご自身の受肉を語っているのではありません。あくまでも、歴史の人イエス・キリストに、キリストの出来事(福音)の基盤があるということを、限りなく主張しなければならないと思います。(p134~135)


要するに、私の関心はあくまでもケーリュグマの秘義を追求する点にあるのでありまして、そのために、キリストご自身の自己証言、初代キリスト教徒の残したキリスト証言を、聖書テキストの中に捉えて、福音の秘密に徹せんと願っているのであります。それゆえ「神なるキリスト」ではなく、「神の子なるキリスト」の中にこそ聖書の秘密があり、神――人――創造――救済――終末に関わる、重大な真理がすべて、神の子、イエス・キリストの中にひそむものと信ずるのであります。ここに聖書テキストに忠実に第四世紀の神学を越えて進もうとする私の意図が存するのであります。 (p135)


私は日本においては一人の平信徒・伝道者として折々伝道上の証詞を【あかし】致しますが、たまたま、YMCA目的条文の中に、あたかも、キリスト教というのは、イエス・キリストを神とする宗教であるといったような意味の条文を発見し、非常に問題を感じたのであります。日本の古い習慣から致しますと、優れた天皇とか英雄、将軍、あるいは聖人らは、死んだ後には、しばしば「神」として尊敬され、神社に祭られるものであります。それゆえ、もし歴史の人イエス・キリストを、あるいは甦ったのちのイエス・キリストを、「神」であると申しますと、日本的習慣からは、「活き神様」の思想に近いものと考えられたり、(中略)このようなことは日本の宣教上からは大変問題であるかと存じます。しかし、ここに卒直に申し上げますなら、キリスト教とは、果して、イエス・キリストを「真の神」となす宗教なのでしょうか。そしてキリスト教的神観とは、このようなものでよいのでしょうかということであります。 (p143)


パウロがイエスを「主」「キリスト」「神の子」と呼んでも、決して「神」と呼ばなかったわけは、イエス自身が「わが父」と呼んだ方こそ「神」であり、唯一の「神」であることを、凡てのキリスト教徒がよく知っていたからであります。この「主イエス・キリストの父なる神」という呼びかけの中に、キリストと神との関係が語られており、ここに、キリスト論の原型があったものといえましょう。しかもなお、ここに、イエス・キリストの名を媒介としてのみ呼びかけうる「神」のいますことが語られており、イエス・キリストの仲保者性が示されているものといえましょう。 (p146)


ケーリュグマ形成、福音形成は、あくまでも死と甦りであります。「死」はあくまでも、彼が人であって、神でないことを示しており、甦りは――それ故に――驚きとなり――神の大能のみの業となるのであります。しかも、一般に福音といえば「十字架の福音」といわれますように「甦り」よりも「死」に重さがかけられているのであります。それゆえ、甦った以上は、悲惨な「死」はもう忘れてしまった方がよい、というような、すなわち、過去の物語となってしまってもよいといったような思想や感情の出現を憂慮し、甦りを語る時には常にまず、死んだということを、ことさら付加し――死人の中から甦った――というように、敢て主張したものと思われるのであります。実は、ここに、福音の特質があるのではありますまいか。 (p147)


パウロがダマスコ途上において出会った復活のイエス・キリストは、パウロに対し「われはナザレ人イエスである」(徒二二・八)と答えております。すなわち、甦った状態も「人」――ナザレ人ーーであって、いかに、それが「神的人格」であっても、イエス自ら明らかにご自身をナザレ人と語り、決して「神」らしくは見せかけなかったのであります。ここにおいては、あく迄も歴史の人が歴史の人として甦ったことを示しており、この点にこそ――救いとの関連のもとにーー人間のもつ人格の永遠性が向う側から語られているものといえましょう。福音書の語るイエスは明らかに人であります。それゆえ、人であるという点においては我々と全く同様であるといえましょう。しかしこの際、肉体だけが全く人で、霊は全く神であるといったような二元的理解は持つべきではありますまい。そのような考は、もはや聖書の人間観ではなく、ギリシャ的、東洋的な人間観といわねばなりません。しかもイエスの死が、あくまでも、贖いの死であるという点に、いかなる人間の死とも比することのできない特殊な「死」と語られるのであります。「贖いの死」というのはまさに神の前の死、神に対しての死であります。嘘、偽りのない、芝居の許されない真【まこと】の「死」であって、まさに史上「唯一の死」というべきものであります。すなわち、肉体のみの「死」というような表現の許されない全存在の「死」であったというべきであります。このように聖書テキストの示す所に従って考えてきますと、イエス・キリストを真に人・真に神と語るニケア・カルケドンの信条は、聖書テキストにもとり、また、イエス・キリストご自身の神観にも、人間観にも、もとるものといわなければなりません。唯一の神、真の神を「父」と呼び、「わが神」と呼ぶキリスト・イエスのみ言葉からすれば、彼を「真に神」などと呼ぶ告白は明らかに間違いで、それは、彼の心を痛めても、喜び給わぬところと思います。 (p147~148)


聖書が、しばしば、神に等しいといった説明をし、事実、神と等しく崇めている人格が、「時」をさかのぼっては、神の創造の業に参加し、時の流れの一点においては、受肉してイエス・キリストと呼ばれて、人類救済の大事業を完成したと語られているところに、見逃し得ないものがあるのであります。それゆえ、私は、聖書が「神の子」と語っても神とは呼ばない神的な人格――仲保者――を無視しては、我々の聖書のもつ秘義を捉えることはできないと思うのであります。(中略)私がここに訴えたいのは、第四世紀のキリスト論のむし返しではありません。パウロがコリントの書で、十字架の他には知るまじと決意したという、あの十字架の福音を徹底的に追及する為に、イエス・キリストが仲保者であり、徹底的な歴史の人――「受肉者」――であることを主張し、芝居ならざる真の十字架上のイエスの「死」において、「贖いの死」という救いの秘義のあることを強調し、さらに、彼の死が真に「贖いの死」である徴【しるし】を、彼が死を征服した出来事としての「甦り」に見出すのであります。私は、このような意味において、キリスト論が福音論そのものであることを主張し、福音である真のキリストを理解したいものと希望し訴えている次第であります。 (p148~149)


先生は、イエスの人格について学ぶならば、ヨハネ伝では、二〇章から始めるべきであるといわれ、トマスの発言である「我が主、我が神よ」を指摘されました。しかしもし、そのような目的でヨハネ伝二〇章を取り上げますならば、二八節のトマス発言よりは、むしろ一七節の甦りの主であるイエス・キリストご自身の発言の方を取り上げるべきだと存じます。すなわち、ここでは、死人の中から甦ったイエス・キリストがご自分で、ご自分の人格証言をなさっておられるからであります。すなわち、キリストご自身と「神」との関係と、彼と彼の弟子達との関係とを自ら明らかに語っていることを知るのであります。(中略)これは甦ってからの発言としてヨハネ伝の中でも特筆すべき言葉であるばかりでなく、新約聖書の中でもその意味において、最も注意を喚起すべき重要な箇所であると存じます。ここでは甦った、いわば神的イエス・キリストが「神」を明瞭に「我が神」と呼んでいるからであります。それゆえ、もしイエス・キリストを「神」であるといいますなら、その神にはまた「我が神」と呼ぶ、もう一人の神がいることとなって、「唯一の神」の思想が破れることになりましょう。イエス・キリストによって説かれ、かつ啓示された神は、広く人間の神であると共に、また、イエス・キリストにとっても「我が神」でありました。このようにイエス・キリストご自身が生けるときも、ひとたび死んで甦ってからも、「我が父」と呼び「わが神」と呼んだ方が唯一の「真の神」であり――キリスト教の神――なのではありますまいか。 (p152~153)


ヨハネ伝の記すセオス」()には、冠詞のついたものと冠詞のつかないものとの間に、明らかな意味上の差別があるということは、ヨハネ伝一章一節で理解することができます。すなわち、この冒頭の一節が成り立つ為には、どうしても冠詞の有無のセオスの間に、意味の上からも、内容の上からも明らかに差がなければなりません。そしてヨハネ伝全体からみて、数少いホ・セオスは――とくに一章一節のホ・セオスは――明らかに「父なる神」(唯一の神)を示しております。そうすれば、ロゴスの方のセオスは、「神」とは訳せない筈であります。それは当然、説明語と見るべきであります。このことを、まず明らかにして、トマス発言をみますに、その「我が神よ」のセオスには明らかに冠詞がついていて、ホ・セオスとなっております。それゆえ、当然ここは「父なる神」と訳してよい言葉であります。そうしますと意味の上からは「我が主よ、我が主なる神よ」と言ったことになります。ヨハネ伝の思想からは、イエス・キリストを「神の子」と呼んでも「父なる神」【ホ・セオス】と呼ぶことはありえません。そうすれば、このトマスの呼びかけのホ・セオスが単純に甦りのキリストをさしているといえましょうか。トマスのようにあくまでもキリストの甦りを疑っていた、そういう人物が、突然甦りの主が現われた為に、まず驚いて「我が主よ」と叫んだことはわかります。このトマスが感激余って直ちに目を天に向け「我が父なる神よ」【ホ・セオス】と叫んで、感謝の祈に移ろうとしたということも考えられます。(中略)ユダヤ人の慣習として(中略)直ちに天を仰ぎ、神に向って感謝し、神を讃美するということが、しばしば、なされておりました。それゆえ、トマスの場合も、異常な感謝すべき大事件に、感極まって、直ちにその眼差しを天に転じ、ホ・セオス(父なる神よ!)と叫んで感謝の祈を捧げんとした、ということも充分考えられます。(中略)ヨハネ伝の思想からは、ホ・セオスがキリストへの呼びかけであるということは、全く考えられないことであります。同じヨハネ伝二〇章の中で、神を「我が神」と呼んでいるイエスが、こんどは、トマスによって彼自身が「我が神」と呼ばれてその呼びかけを承認しているとは、どうしても理解しがたいことであり、もし、ここをそのように解釈致しますと、ヨハネ伝の中なるキリストの神観がうち壊されることになりましょう。 (p154~155)


キリスト・イエスは、自ら神に祈られましたが、また、人々に、神を「天にいます我らの父よ」と呼びかけて祈るように教えられました。しかし、甦りの後においても、私に祈れとは決して教えられなかったのであります。ここに、注目すべきことはヨハネ伝一六章にしばしば記されている「求めよ」と語られている言葉であります。キリストは祈ること(beten)と求めること(bitten)との間に、何らかの差を設けられていたのではありますまいか。すなわち、原則的には神に対して祈ったり求めたりしても、キリストに対しては祈るというより、むしろ、求めるという表現をのみとるべきだというのではありますまいか。たとえ、心理的には同じでも、テキスト上では一応区別しているのではありますまいか。パウロが甦りのキリストに対して、三度わが病を取り去り給えと願った時には、祈ったと記さず求めたと記していることに注目させられます。註 あとで調べましたらⅡコリント一二・八の求めたというのにはビッテンが用いられておりませんでした。しかし、祈ったとはなっておりません。 (p156)


黙示録四章ではキリストは王座についていないように思います。しかし、たとえ、甦りの主が右側の王座に座するというようなことがあったとしても、唯一の王が現存する以上は、そのことで直ちに王自身であるというようにはいえないと思います。 (p157)


私が問題としているのは教理でも哲学でもありません。私は聖書にないことで、あとになって教義の形をとって出てきたものには、人間的作為が加えられていて、危険であり注意すべきであるということを強調したいのであります。たとえば、キリストを、真の神、真の人ということも聖書の中には見られないことであります。もし、今なお、このような信条に立ちますならば、今活ける霊なるイエス・キリストは、そのままで「真の人」なのでしょうか。そしてまた、そのまま、他に「神」なきが如くに「真の神」なのでしょうか。今活ける霊なるイエス・キリストは、このように「人」とか「神」とかと呼ばれるより、むしろ、「神の子」と呼ばれるべき方なのではありますまいか。(中略)今もなお、聖書テキストにはない「真の人」で「真の神」と呼ぶ第四世紀の神学、信条に従わなければならないものなのでしょうか。(中略)聖書テキストが「神の子」と呼んでいる人格の中に、聖書の秘密があると思うのであります。すなわち、キリストについては神か人かといった設定、あるいは神であり人であるといったような表現は、聖書テキストからは、どうしても間違いだといわなければなりません。神と等しいといわれる「神の子」が受肉して人の世に現われたということが、福音の真理なのではありますまいか。  (p157~158)


聖書テキストによるイエス・キリストはいわば一〇〇%の人間であります。それゆえ、彼の死が、ごまかしのない一〇〇%の死――「真の死」――となります。死が「真の死」であってこそ、はじめて、甦りもまた、真の甦りとなります。要するに、キリストが真の人であってこそ、その死と甦りの出来事が福音となるのであります。すなわち、真の福音ーーケーリュグマが成立するためには、キリストがあくまでも「人」である点にあって、「神」であってはならないのであります。それゆえ、イエス・キリストについて、その一〇〇%の人間性が、少しでも割引きされることとなりますなら、たとえば、キリストは「真の神」(一〇〇%の神)であるといった表現をとりーーその「神」に強くアクセントを置きますならば、死と甦りのケーリュグマは破られ、福音は危機に追い込まれることになりましょう。 (p159)



福音書にみられるイエスの証言とか説教の総てが、そのまま歴史的なものであると考えることはできないと思います。むしろ、福音書は一つの信仰告白と考えるべきであると思います。しかし、その信仰告白の背後には、歴史的人格による裏づけがなされているというように考えるべきではありますまいか。 (p160)


福音書を含めた、使徒達の「信仰告白」には、彼等をして、そのように告白せしめた史的イエスが、その背後に厳然として立っていると考えられます。すなわち、弟子達をしてその時折の信仰告白をなさしめた、そのようなイエスが、あくまでも「歴史の人」であると主張するのでありまして、その意味ではイエスによる歴史的発言を否定できないと存じます。 (p160)


聖書テキストの中に、キリストが神でないという言葉の有無を探してみる必要はありましょう。しかし、テキストが明らかに「神の子」という表現のみをとって、「神である」といわないところに、むしろ、積極的な意味があるのではありますまいか。このように申しますのは、聖書の神は異教のように「人」になることがないからであります。聖書は先在した、天の「神の子」が人になったと語っても、「神」が「人」になったとは語っていないのであります。(中略)イエスが歴史の人であり、真の人であるという点については、ドケティズムの主張者以外、いかなる神学者も否定はしないのでありますが、問題なのは、その歴史の人を直ちに「真の神」と呼ぶか否かの点にあるのであります。異教では一般に「救い」とは人が神になることでありますが、聖書においては、人がキリストのような「神の子」とせられるところに救いがあると教えているのであります。すなわち、聖書では神と人とは直接に関わらず、「神の子」が媒介となっております。このような神と人との媒介性がキリスト教の特質でありまして、キリスト教においては神と人とが主題となるより、むしろ、神の子であるキリスト・イエスが主題となって、そこから神と人とが語られてくるのであります。要するに、先在の創造の仲保者である「神の子」が受肉して人となり、人の罪を贖って救主となったという点に、神と人との出会いが可能となったわけでありまして、福音とは、まさに、このような人となれる「神の子」に関わるものといえましょう。そして彼は、決して人となれる「神」ではなかったのであります。 (p161)


受肉という出来事が正しく理解されますならば、それが直ちに100%の人間たることを意味するものといえるのではありますまいか。(中略)事実、四福音書の示しているイエス・キリストは、内実的には100%の人を意味しているといえましょう。  (中略)イエス・キリストが、いわば、100%の真の人でなかったならば、――すなわち人でない部分があるとでもいいますならば――十字架の死の意味が失なわれてしまいましょう。「十字架の福音」ということは、あくまでも、人間イエス・キリストにおいてのみ可能なことではありますまいか。(p162)



ブルトマンは明らかにヨハネ伝の「受肉」の思想を対ドケティズムと主張しております。なお、私自身質問致したいことは、このような肉体を持つ人間存在が聖書テキスト上「神」と呼び得るかということであります。聖書の神観からは肉体を持った神――「人である神」といった思想は見出せません。また、聖書の思想、そしてイエスの思想によれば「神は見えない」存在であります。このことは当然肉体を持つ神という思想を打ち砕き、また、同時に神が受肉するという思想を否定しているものといえましょう。これらのことから結論としていえますことは、イエス・キリストは先在した「神の子」の受肉者であって、受肉という言葉の示すように肉体を持っており、それ故、当然目に見える存在であります。それ故、「神の子」とはいえても「神」とはいえないということも当然なことと存じます。しかし、「神」でないが「神と等しい神の子」であるということが聖書証言であり、福音形成の中心点であると存じます。 (中略)聖書は明らかに、神はその「独り子」を世に遣わしたといっていて、決して神自らが肉体をとって世に来たとはいっていないのであります。(中略)聖書は神の存在について、形而上学的な議論を展開しているとは思えません。聖書の中のイエスの「神」は形而上学的存在論の介入を必要としない――「わが父」「汝らの父」――でありました。しかもイエスはその「父」を「唯一の真の神」(ヨハネ一七・三)と呼んでおります。そして聖書は、この「父」であり、「唯一の真の神」が受肉することがあるとは一度も語ってはいないのであります。受肉して世に遣わされたのは「御子」であります。そしてこの「受肉した御子」がイエス・キリストであるというのであります。それで、私は、イエス・キリストご自身が「神」なのだというより、イエスが「わが父」「わが神」と呼んだ方が「唯一の真の神」と理解すべきであると思います。事実聖書はそのように教えていると信じております。(p163~165)


福音とはあくまでも一つの聖なる出来事であります。一般にハイルス・ゲシヒテ(救済史)と言われるものも、ハイルス・ゲシェーエン(救済事件)として理解すべきものと考えられます。すなわち、福音は人間の歴史の中で爆発的に起きた「出来事」(ゲシェーエン)であります。それゆえ、その出来事の実感は日を追うて次第に弱められても、強められるということはあり得ないのであります。また、もし、この出来事の中になかったようなものが、将来、歴史と共に、新たに強く打ち出されてくるようであれば、それは極めて危険なことでありましょう。新約聖書が語る「聖なる出来事」――「救済の出来事」――は、聖書においてこそ常に新しく人に迫る「神の言」でありまして、それは歴史を経た三世紀、四世紀、あるいは一六世紀、二〇世紀となって新たに現れたような、人間的思索や思想の加味されたものに対比し、もう古くなってしまったと言われるようなものではないのであります。むしろ、福音は聖書においてこそ、最も新しいというべきでありましょう。この意味において、私は福音の歴史的発展性とか、進歩性とかいったことを考えることができないのであります。むしろ、福音に歴史的発展とか進歩とかいった概念をもち込むこと自体が、極めて危険であると思っているのであります。  (p166)


Ⅰヨハネ五章の終りについては、文法上に問題のあることは知っております。しかし「このかた」がキリストにかかるか、神にかかるかは、たしかに問題であって、神にかかるとする意見が強いように思われます。とくにこの書のように、はじめから神である「父」と、神の子である「御子」を対比しつつ論じてきた書が、最後になって、御子と呼ばれるイエス・キリストの方が「真実の神」だというのでは、どうしても無理だと思われます。また、ホ・セオスの釈義でありますが、これは私の身勝手な釈義ではなく、ブルトマンにもこのような釈義があります。ブルトマンは決して無理な釈義をしている学者とは思われません。(中略)マルコ伝四・三三には、イエスは人々の聞き得る力に従って語ったと言っております。イエスは、人々の理解の限界を越えた事柄について語っているのではなく、むしろ、理解できるように、しかし、もちろん、信仰を媒介として理解できるように語っているのであります。特にイエスは「汝らは我を誰となすか」といって明らかに「イエス理解」について問うており、そこにペテロによってイエスの満足した答がなされているのに注目すべきであります。  (p168~169)


エペソ書四章では「主は一つ」「父なる神も一つである」と言い、Ⅰコリント八章では「唯一の神」に対し「唯一の主」として、イエス・キリストが語られており、Ⅰテモテでは神を「唯一」と呼び、さらに「唯一の仲保者」があって、それが人間イエス・キリストであると明記しております。これは、実に注目すべき発言であります。私共は、新約聖書は「唯一の神」と「唯一の主」(唯一の人間仲保者)とを区別していることを知るのであります。そして当然「唯一の主」は「唯一の神」に対して、もう一人の「神」と呼ばれてはならないことも、ここにおいて明らかにされているものと存じます。それとともに、その「唯一の神」と「唯一の主」との関係については、Ⅰコリント一五章に、この「唯一の主」は「唯一の神」に――時、至りてーー従うべきものと、明白にその秩序の差を示しているのであります。このような「唯一の主」すなわち、「人間仲保者」が十字架の福音の基礎になっているのではありませんか。  (p170)


神と等しく取り扱われているから「神」であると結論づけるのには問題があります。なぜなら、「神の子」も神と等しく取り扱われているからであります。私は、神と等しいといわれている「神の子」にこそ、聖書の秘密があると当初から主張し続けているのであります。すなわち、ここで問われますことは「神の子は『神』か」であります。そして聖書は神の子、イエス・キリストを「神」と断ぜず、神についてはあくまでも、その唯一性を貫いていることを知るのであります。パウロは「神の子」が終末時においては神に従う(Ⅰコリント一五・二七)と証言し、ここに明瞭にキリスト対神の関係を示しており、これはキリスト論の上からも重大な証言というべきであります。(中略)三位一体論からはパウロがⅠコリント一五・二七に記したようなオルドヌング(秩序)の差が出てこないと思います。(中略)イエス・キリストが肉体をもった歴史の人である限り「神の子」と呼ばれても「神」とは呼ばれてはならないのであります。そして、人間の救いは「神の子」と呼ばれる「人」なるキリストと同じように化せられる所にあると聖書が教えており、それが福音であります。もし、キリストを「神」とすれば、ここに人間一般の神化も考えられることとなり、聖書の「神」と「人」との思想が混乱してくると思います。(中略)Ⅰテモテ二・五には神と人との間に「唯一人の人なる仲保者イエス・キリスト」がいると、明らかに語っているのではありませんか。  (p171~173)


使徒行伝二・三六やピリピ二・九- 一一には、神はイエスを「主」として、また「キリスト」としてお立てになったのであると書いてあります。そのように、新約聖書がイエスを「主」と告白するのは、それが神によって立てられた「地位」であるからであります。それゆえ、旧約聖書が語る「主」と同様に考えることはできません。要するに「救い」もまた神がイエス・キリストに委ね給うた所のものであります。それゆえ、新約の「救い主」とはイエス・キリストをさしているのであります。イエス・キリストこそは、神の前にあって、「神」と「人」とを媒介する唯一の仲保者であり「救い主」であります。そして「神の子」は、あくまでも、「唯一の神」の外にある主体者として――神ならざる神格者として――大きな秘密を担っていることは、いくら強調しても強調し過ぎることはないと存じます。  (p173)


一般に「十字架の神学」とか「十字架の福音」とかと、しばしば十字架が単独で語られますが、しかし甦りだけが単独で福音として語られることの少ないということにも注目すべきであります。黙示録は昇天したキリストはもはや「永遠に活ける主」であるから、それで充分であって、地上の死の様相の如きは、もはや悪魔として忘れ去られて然るべきだとはいわず、却って、しばしば屠られし小羊として語り、とくに、一度死んだことがあると明記しておりまして(一・一八)十字架の死との関連なしに、「活ける主」も「福音」もあり得ないことを示しているのであります。福音がキリストの死に関わる以上、キリストが「歴史の人」であるとともに、その「死」の事件が人間の歴史の中での事件であることも当然なことであります。ここに仮現説と三位一体の信条とを共に否定する福音的な理由が存するのであります。  (p176)


神と等しいといわれる「神の子」――しかも、甦り、今活ける栄光の主であるイエス・キリスト――に相対する時、人からの呼びかけ、願い求めることが「祈り」の性格をおびるということは、心情的には否定できません。まして、ステパノのような場合(徒七・五四~六〇)祈りとも見られることは当然なことと思います。そして、キリスト者としての信仰生活において、キリストに祈っていると思われるときのあることを否定できません。私とてもまた、この実感の避け難いものであることを告白せずにはおれません。しかし、聖書的な厳密な意味において、キリストに祈るということが成り立つかということとは別問題であります。(中略)キリストご自身はわが名によって「神」に求めよと仰せられており、また、しばしば、神に祈ることをすすめておられます(ヨハネ一四・一三―― 一四、一六・二四――、ルカ一八・一、二一・三六)。すなわち、このようなキリストのみ言葉があったために、すべての祈りがキリストの名によって捧げられるという習慣がついたのではありますまいか。そして、甦りのキリストご自身に対しては「祈り」という言葉をさけて、呼びかけるとか、願い求めるとかといった言葉が用いられたのではありますまいか(使徒七・五四ー六〇、コリント後書一二・八<旧訳>参照)。  (p177)


私が二十二才のとき、自ら決意して洗礼をうけ、信仰を告白して、一人のキリスト教徒となりましたのは、キリストの「十字架の死」が私の罪の贖いだと確信出来たためでありました。すなわち、私の信仰は、いわば贖罪経験からはじまり、それが今迄続いているのであります。私にとって、キリスト教とは、贖罪宗教にほかならないのであります。(中略)
私がキリスト教徒となり、そして、いま、なお、私をキリスト教徒にとどめているものは、キリストの十字架であります。他に何らの理由もないのであります。それゆえ、私にとって、十字架の真理が少しでも動揺しますことは、私の信仰が動揺し、私をキリスト教徒にとどめておくことを危うくすることを意味しているのであります。私はパウロのように十字架以外は知るまいと決意して私の信仰生活を続けてきたのであります。
齢四十才をこしてから、キリスト論に熱中致しましたのは、それが救いの論理であることを知ったからであります。すなわち、キリスト教が他の宗教と完全に自らを断ち切って、その独自性を示すものがキリストであり、かつ、「十字架の福音」であることを確信したからこそ、とくに、キリスト論を取り上げたのであります。率直に申しまして、神についてはよくわかりません。ただ、キリストを信じて、はじめて真の神がキリストの父であり、キリストの父であるが為に、私の父であることを恥としない方であることを知ったのであります。キリスト抜きの神は、私には考えられませんし、信じられもしません。
要するに、私にとって、福音とはキリスト彼自身でありました。それゆえ、私のキリスト論はそのまま福音論であります。すなわち、私のキリスト論は、論といっても頭から出ないで心情から出ている部分が多いのであります。それゆえ、それは、いつでも私の信仰告白に連るのであります。 (p189)